映画「ミスターソウルマン」(1986)

マーク(ハウエル)はそこそこの経済的に恵まれた家の子であったが、ハーバード大学法学部に合格した。しかし喜びもつかの間、なんと父親が学費に充てるはずのお金を全て使い果たしてしまい、進学のための費用がなくなってしまう。

困ったマークだったが、黒人学生のみに適用される奨学金制度を知り、思いつきで何とサンレスタンニングを使用して黒人に成りすますという荒技に出る。その後、マークは人種問題や自分の奨学金のせいで奨学金が貰えないサラ(レイ・ドーン・チョン)の存在を知る。

(上記、wikipediaから引用)

白人である主人公が黒人になりすますという内容のため、公開当時はアフリカ系アメリカ人の間で物議を醸し、『ニューズウィーク』誌では不快な内容の駄作として叩かれた。しかし、これらの抗議や批判があったにもかかわらず、この映画は興行面では成功した…。

とのことで、映画自体の評価はあまり高くないようだが、私はそこまで酷評するような内容の作品だとは思えなかった。

日本人なので、アメリカの人種問題について感覚的にピンと来ていない面もあるだろうが、白人であるマークが黒人になりすますことで、黒人当事者としてアメリカ社会を今までと異なった視点で改めて見渡すことができ、その経験がクラスメイトのサラとの、異人種間の恋愛に発展したことは、アメリカ社会の人種間の融和という面で、とても示唆に富んだ感動的な物語である。ただ白人が、黒人の特徴(いわゆる、黒人あるある)をあげつらって揶揄している作品ではないのだ。

アメリカの歴史の中では、白人が体を黒く塗って黒人を揶揄する、いわゆるミンストレルショウが存在した時期があるので、この映画によって黒人たちに、悪しき記憶を呼び覚ましてしまうということが低評価の理由なのかもしれない(映画ではなく小説で表現されていたら抵抗なく受け入れられそうな物語である。体を黒くしたマークの姿は黒人というより南アジア人のよう)。

が、むしろその大胆な設定によって、黒人に対する白人の嫌悪感・異人種間の深い溝を乗り越えて、マークとサラの仲が恋愛に発展していくヒューマンドラマそのものにスポットライトが当たっているからこそ、厳しい評価を下されながらも、映画館へと足を運んだ人も多かったのかもしれない、と考えられる。

不況の波にあおられて、白人至上主義者やネオナチの過激派グループの活動が活発化し暴力事件が多発した1980年代に、せめて映画の世界では異人種間の融和を見たいという多くの観客側の潜在的な欲求も手伝っていた可能性もある…。

アメリカには本作のモチーフとなった、黒人その他マイノリティの若者に奨学金を出して進学させる制度が存在する。アファーマティブアクション(積極措置)といって、マイノリティや女性の進学、卒業後の就職、昇格、ビジネス契約などに、主に人口比率で特別枠を提供する措置で、1960年代に始まった公民権運動の最大の成果だった。このおかげでマイノリティや女性は一挙に「社会主流化」し、黒人だけでも1000万人前後の新中流層が誕生した。

ただ、この制度によって、いわゆる逆差別が発生しているとする白人側の反発も存在し、本作公開時の1980年代や、2026年現在のように世の中が不況になると、人種問題が再燃し、論争の火種となることがある。心に余裕をなくした白人が攻撃の対象を求めるのだ。

日本にも昨今、外国人が日本人の雇用を奪い、国内の治安を悪化させているとする『外国人問題』なるものが話題に上ることがあるが、アメリカにはこの『外国人問題』が白人にとって常に存在するようだ(白人がネイティブアメリカンの土地に勝手に入植し、白人自ら黒人を奴隷としてアメリカ大陸に連れてきておいて、言える立場ではないはずだが)…。

それにしても、本作の公開からさらに時代を下って2026年現在、北米における白人の割合は6割を下回り、白人の貧困層も増え、白人は特権階級だと主張することも難しくなりつつある。むしろ白人がマイノリティとなって、上記のアファーマティブアクションの恩恵を受ける立場になることも考えられる(AIの台頭によって大学卒業がどれほどの意味を持つのか、この先不透明だが)。

アメリカの歴史は今また激動の時代を迎えている。新たな対立と融和を乗り越えて、これからアメリカ社会がどう変化していくのか、映画と共に動向を注視していこう。

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映画「シェフとギャルソン、リストランテの夜」(1996)

1950年代、アメリカ東部ニュージャージーの田舎町。イタリアからの移民である弟のセコンド(スタンリー・トゥッチ)と兄のプリモ(トニー・シャルーブ)は、イタリア料理のレストランを営んでいる。セコンドは店の経営とギャルソンを担当し、プリモはシェフとして料理を作り、甥のクリスチアーノ(マーク・アンソニー)も一緒に働いている。

才能あるシェフであるプリモは祖国イタリアの本格的な味にこだわっているが、アメリカ人とは感性が合わず、客はほとんど入ってこない。いよいよ経営が行き詰まり、セコンドは銀行に借金返済の猶予を頼み込むが、にべもなく断られてしまう。恋人のフィリスはセコンドとの結婚を望んでいるが、他にも愛人がいるセコンドは、店の経営難を理由に煮え切らない態度をとっている。

一方、通りの向かいでは、アメリカ人向けのイタリア料理を出すパスカルのレストランが、毎夜にぎわっている。自分の料理の純粋さに誇りを持つプリモは、パスカルの店が出す料理を許すことができない。パスカルはセコンドに、プリモと一緒に自分の店で働くよう誘うが、セコンドは兄の信念を理由にそれを断っている。

銀行による店の差し押さえが迫るなか、セコンドは兄に内緒でパスカルに借金を頼むが、パスカルは金を貸すことはできないと断る。しかし、かわりに知り合いの有名なジャズ・シンガーであるルイ・プリマに、セコンドとプリモの店を訪れるよう頼んでくれるという。セコンドは、兄にはパスカルの助力であることを隠しながら、店と自分たちの人生のため、ルイ・プリマを主賓とするパーティの準備にとりかかる。

(上記、wikipediaより引用)

1996年公開とは思えないほど、クラシカルな映像と演出が光る作品である。中途半端な妥協や見せかけの面白さでは決してごまかさない、職人気質のプリモの料理のようだ。さて、作中のプリモのような頑固とも言える態度は、ひと財産稼ごうとアメリカにやってきた移民として適切なものなのだろうか?

才能も実力も兼ね備え、自信もあるからこそ、アメリカに来ても母国の本場の味をアメリカ人にも味わってもらいたい、アメリカで本場の味を浸透させたいと願っているプリモだが、味覚や好みというのはその国の文化や歴史にも密接に関係があるわけで、信念があれば認められるものではない。

外国料理というのは、どの国でも最初から本場の味が受け入れられるものではない。日本においても、まず西洋料理としてナポリタンが誕生し、インド料理がカレーライスになり、中華料理がジャパナイズドして町中華になり、その国の人々の口に合うように改変された上で、ようやく受け入れる側の思考や好みが変化して、本場のパスタやリゾット、本格的なインド料理、中国人による四川料理が認知され、好意的に受け入れられるようになるのである。

プリモやセコンドが生きているアメリカは、ましてや1950年代であり、当時の先住アメリカ人には、まだまだ保守的な思想や感覚があったはずだ。日本人にとってみれば同じ白人でも、イタリア系はアメリカ社会に遅く参入してきた民族であり、イタリア料理が認知されていないだけでなく、人種差別もあっただろう。2018年公開の映画「グリーンブック」で、1960年代になっても、用心棒として雇われたトニーが『イタ公』と侮蔑される様子が描かれるように、保守的な時代は長く続いた。

プリモやセコンドも、アメリカの保守的な雰囲気は意識せずにはいられなかったと思う。だからこそ、セコンドの身のこなしや、パスカルの経営姿勢はアメリカナイズドされているのだ。プリモの信念も尊敬に値するが、二年も店を経営して何一つ工夫することなく廃業に追い込まれることを思うと、自業自得にも見える。作中では、経済ヤクザのようなパスカルがプリモの店に意地悪をして廃業に追い込んだように表現されているが、パスカルがルーツのイタリア風を表現しつつも、自分の店をアメリカ人好みの経営業態した経営手腕は、多国籍国家では当然の帰結だろう。日系アメリカ人が海苔巻きをそのまま出して、海苔が髪の毛のようだと嫌われるために、カリフォルニアロールを開発したように、まずはアメリカ人好みに改良してからでなくては、本場の海苔巻きや寿司だって受け入れてもらえない。

移民としてアメリカに渡ってきたということは、母国より良い生活環境を手に入れるためだろうし、まずは信念よりもビジネスを優先しなければならないはずだ。わがままを言いたいなら母国にいればいい。

おそらく、プリモは母国の親戚の店を手伝うために帰国することになるだろうし、セコンドや従業員のクリスチアーノはパスカルの店に雇われて働くことになるかもしれない。そしてセコンドの恋人のフィリスは南部に移動してカウボーイとくっつくかもしれないが、とにかく、移民というのは、自己のアイデンティティーや文化を、受け入れ国やその国の人々に一方的に押し付けるのではなくて、移民先の国の文化に合わせ自らを統合しつつ、しかし妥協的に自らのルーツを小出しに表現していくことなのかもしれない。

映画「グリーンカード」(1990)

ニューヨークで一組のカップルが結婚式を挙げた。だが2人は今日が初対面だった。園芸家のブロンティは安くて温室のあるアパートに住みたかったが、そのアパートは単身者では入居できなかった。一方、フランスからやってきたアーティストのジョージは、長期滞在の外国人永住権(グリーン・カード)を得るためにアメリカ人の妻が必要だった。

お互いの利害が一致した2人は書類だけの結婚(偽装結婚)をし、望みのものを手に入れた。ところがある日、入国管理局の調査員が偽装結婚でないかをチェックするために家を訪れるという。根掘り葉掘り質問する調査員を何とか誤魔化したものの、ひと月後の本格的な調査の面接に備える必要があった。お互いの趣味や生い立ちを暗記し、屋上でバカンスのニセ写真を撮ったりするうちに2人は惹かれ合っていった。

入国管理局の2人への面接は打ち合わせ通り進んでいたが、ジョージがある質問で間違ってしまい、とっさに暗記できなかったことを呟いてしまう。しかたなく偽造結婚を打ち明けるが、ブロンティに罪はないと伝える。

偽装結婚が発覚してアメリカから強制退去させられるジョージに、ブロンティは愛の告白をするのであった。

(上記、wikipediaからあらすじを引用。一部修正)

お互いの思惑があり、偽装結婚をしてまで望みのアパートメントに住みたい、とする設定は理解できるのだが、ブロンティが偽装結婚をしてまで「植物」に固執する理由はなぜか、が理解できなかった(もちろん、映画タイトルのグリーンカードと温室を意味するグリーンハウスのかけ言葉を狙った面もあるだろう)。

自然豊かな土地で生まれ育って、仕事のために都会に出てきたのだったら、コンクリートばかりの都会に緑を恋しく思う気持ちはわかる。仕事のために、おいそれと田舎に引っ越すこともできず、日々の癒しのために小さな植物園を作るための温室付きアパートに絶対に住みたいのだったら・・・。

しかし、ブロンティも親姉妹ももともとがニューヨークの生まれ育ちのようで、自然豊かな田舎を恋しがって植物を愛しているわけではないようだ。加えて、ブロンティやブロンティの恋人が、ビルの取り壊し跡を園芸公園に作り替える環境回復グループ『グリーンズ』のメンバーであることから、恋人から都会の緑地化や菜食主義の思想を洗脳された、とする考え方もできる。

今も昔も、セレブや資産家が環境保護活動や慈善事業、菜食主義を熱心につとめるイメージが私にはあるが、彼女の仕事について具体的な描写が作中になかったことから、彼女も一種の経済優位層で、恋人に自然保護活動の思想を吹きこまれながら、おもちゃを欲しがる子供のように温室付きアパートメントを欲しがり、「かわいそうな」フランス人移民を助けてやろうと、一種の慈善事業のつもりで偽装結婚に踏み切ったのかもしれないキャラクター、と読むこともできる。

ジョージもまた、観光ビザでアメリカに入国し、しれっと偽装結婚をしてまでグリーンカードを取得しようとするふてぶてしさが気になるキャラクターだが、ほぼ単一民族の日本と違って移民大国のアメリカでは、こういった不法または不法スレスレの移民をも取り込んで、経済成長していった歴史があり、よくあることなのだろう。

作品全体は、恋愛物語によくあるパターンで、正反対の性格、生い立ちのものがお互いの足りない部分を補うように惹かれ合っていく、というもので、ブロンティが経済優位層ならば、ジョージはスラム出身で、子供の頃から万引きや自動車窃盗もやっていたワルの時期があり、彼の両腕には自らの生い立ちを刻み込むかのように、いくつかのタトゥーが彫られている。

金持ちと貧乏人が出会って、恋愛が成就されるまでのある種のシンデレラストーリーを内包している悲喜劇ドラマである。

映画「タヌキ計画」(2020)

母と妹を残し、ベトナムから日本へ出稼ぎに来たタンヤ。TANUKIという舌に乗せると望みの国籍者に変身できる違法薬物を服用して、日本人に化けてホテルで働いていた。同じホテルで働いている日本人の同僚とも親しくなり、日本の生活に馴染んでいくが、薬物の副作用により、徐々にタンヤは日本人の姿のまま本来のベトナム人の姿に戻れなくなっていく…。

(大まかなあらすじを紹介)

ぴあフィルムフェスティバルに出品された本作の紹介文の一部を抜粋すると、『在日外国人の生きづらい現実をおとぎ話として描いた異色作』とある。在日外国人にとって、なにが生きづらさにつながっているのか?

当然ながら、日本は現在、植民地支配や奴隷制度を政策としてとっているわけではない。外国から人間を首根っこつかまえて強制的に日本へ連れてきて働かせたり、外国人の文化や言葉を全面的に否定して同化政策を強いているわけでもない。技能実習制度が現代の奴隷制度だと批判されることはあるが、ニュースやネットで切り取られている暴行や人権無視に関するような悪しき動画は技能実習制度のほんの一部分の闇であり、メリットも多くあるからこそ、毎年何十万人と技能実習生が日本へやってくるのだ。

日本で中国語やベトナム語やシンハラ語を喋っていても、警察や市民からリンチにあうことはないし、外国人向けの食料品店も多く存在し、彼ら彼女らが何を食べても自由だ。信仰の自由も存在し、イスラム教の礼拝所を建設することも禁止していない。

日本において、ある程度の外国人の自由は保障されているはずだ。

日本へ来て、もし日本語を喋ったり、日本らしい接客ルールやマナーを守ることが『生きづらい』とされるならば、母国で生活していればいいことだ。日本人であったって、外国に住んでいればその土地の習慣や文化を尊重することは当たり前である。それらを『生きづらさ』の一言で片づけてしまうならば、それはわがままというものだろう。では、本作で『生きづらさ』が表現された場面はなかったのだろうか?

唯一、作中で具体的に表現されている箇所は、タンヤが和食料理屋のオープンキッチンで働いているシーン。彼女は一生懸命調理をして、出来上がった料理はなんの問題もなさそうな見た目をしているが、和服をきた年配女性の客から「外国人の作った料理は食べたくない。作り直して」と言われてしまう。接客をした同僚も、「申し訳ございません。調理しなおします」と、外国人が料理をすること自体が申し訳ないことなのだと、客への返答の仕方で肯定してしまう形をとる。

外国人という見た目による差別である。これはあきらかに差別だ。出された料理の見た目が崩れていたり、調味料を間違えて味が不味かったり、髪の毛や折れた割りばしが入っていて衛生状況や危険があればクレームが発生する余地はある。しかし、見た目にも申し分なく、衛生管理も守られていた上で、ただ外国人が作ったからというだけで文句を言うならば、作中の年配女性の主張していることは差別であり、ヘイトである。

この年配女性や料理屋の同僚が無意識にしていることは、実は多くの日本人がとる態度を象徴しているのではないか。外国人に対する無関心、外国人を見たくないという心理。つまり現在の日本が置かれている状況を理解していないのだ。なぜ、日本に外国人がたくさんいるのか、と。

作中のようなオープンキッチンではなくとも、飲食店の厨房では多くの外国人が働いているし、全国の農場や工場で多くの外国人が飲食料品製造の一翼を担っている。「外国人が作った食べ物を食べたくない」とのたまいながら、無意識に外国人の作った飲食料品をコンビニやスーパーで買って食べてもいる。これは矛盾というものだろう。いまや、外国人に働いてもらわなければ各産業の現場が回らない現実がある。

日本人も在日外国人も、日常生活を送る上で、どこまでが差別で、どこまでが守るべきルールやマナーなのか明確に線引きする必要はある。ゴミ出しの仕方や、公共空間での騒音問題などに関しては、ルールやマナーは守ってもらう必要がある。一方で、コンビニの前でたむろしているだけで怖い、というような見た目に基づく感情論は、論理的な理由がない差別である。

作中でさりげなく触れられた、『外国人というだけでアパートを借りるのが大変』問題。これは、不動産屋もビジネスでやっている以上、家賃を安定的に徴収できるのかという懸念があったり(日本人の高齢者に対しても同じ理由でアパートが借りづらい問題がある)、上記のようなゴミ出しの仕方や騒音による日本人住民とのトラブル、言語の壁等あり、感情論ではないはっきりとした理由があるため、差別ではない。

どんなに努力しても『外国人だから』と、見た目による差別をされてしまう。だからTANUKIを服用して日本人の見た目に変身するのである。どこまで行けば、日本の文化を尊重し、理解していることになるだろう。外国人の見た目のままでは受け入れられる余地はないのか。

現実社会では、言葉は努力して上達することができても、ベトナム人がベトナム人としての見た目を変えることはできない。見た目が日本人ではないというだけで差別されるならば、差別する日本人の考え方を改めなければならないだろう。プライドや価値観を守ることも必要だが、目まぐるしく変わっていく世界の潮流を見極めて、井の中の蛙でいるばかりでなく、変化していくことも重要だ。どの時代においても、変化することを止めることはできない。

監督のチェ・ユシン氏は、ほのぼのした作風が特徴の荻上直子監督のファンだそうである。作中にもコミカルなわらべうたのような音楽が流れるが、確かに荻上氏のイズムを感じる。作品の全体的な雰囲気とマッチしているかどうかは別だが…。

映画「この国で、幸せになるの。」(2023)

受け入れ先の企業でこれから働くことになっていたネパール人技能実習生が、ある日突然、失踪した。通っていた日本語学校にも、住んでいる寮にも言伝はなく、どこに行ったのかわからない。

監理団体職員の根古﨑と日本語学校教師のアリスが彼の行方を捜すことになった。

技能実習生寮の冷蔵庫に貼ってある「にほんでのお困りごと 即解決」と書いてあるマグネットシートの連絡先を頼りにその事務所へ向かうと、サングラスをかけた怪しげな外国人が現れる。

怪しげな外国人はコンピューターを駆使し、いとも簡単に失踪した技能実習生の居場所を突き止める。根古﨑とアリスが失踪した技能実習生・ラビを見つけたあと、彼から失踪した理由を聞き出すと、彼より先に日本に働きに来た恋人を探していたのだという。

三人が川原で話をしていると、噂のラビの恋人が小さな子供を抱いて目の前を歩いていく。ラビが彼女を追いかけると、彼に気付いた彼女は逃げるように走っていく。

実はラビが日本に来る前に彼女は日本人と結婚していて子供を授かり、日本で家庭を築いていたのだ。

ラビは彼女との失恋に気を病み、日本で働くことなく、母国へ帰ってしまうのだった…。

(大まかなあらすじ)

本作を一言で表現するならば、『不可解』である。テーマ、ストーリー、編集…作品を構成するすべての部品がバラバラでうまくつながっていない。この映画の概要をAIが説明するところによると、「技能実習生が失踪する問題を扱い、社会のあり方に疑問を投げかける社会派ドラマ」らしい、が、社会を斬るには底抜けに牧歌的である。

本作の内容を考えるためには、まず技能実習生に関する知識を得なければならないが、以下の書籍をおススメする。

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外国人がたくさん登場するただのコメディなのか、技能実習制度に焦点を当てた社会派作品なのか立ち位置がはっきりしない。冒頭とラストで電子部品を組み立てる工場の俯瞰映像が差し込まれ、技能実習制度についての説明をする社会派映画のそぶりを見せるのだが、結局、技能実習制度に斬り込むことはなく、ふたを開けて見てみれば、恋人を追いかけて来日した失踪ネパール人を日本人が追いかけるだけの物語になっている。脚本・編集を兼任した監督のコンセプトが定まっていなかったのではないか。

もしくは、製作段階で事情が二転三転して当初の目的が遂行できなかったのかもしれない。コンセプトやテーマのはっきりしない駄作の裏事情を聞くと、多くの関係者の口が挟まれたことによって、つぎはぎだらけの出来上がりになることがままあるからだ。

ツッコミどころが満載ではある。そのツッコミどころをギャグだと主張するならば、やはり技能実習制度というワードを盛り込むべきではなかった。技能実習制度というヘビーな話題と、あまりに軽すぎるギャグのオンパレードとが、どう考えてもマッチングしない。

そもそも、失踪外国人というには、職場でハラスメントを受けたとか、説明されていた給料より実際の給料が安くて借金が返せそうになかったとか、就労目的の留学生が日本語学校に通う時間ももったいなくてとか、彼らなりの深刻な事情があるものだが、本作のネパール人の失踪理由はというと、まだ日本で働いてもいない上に恋人探しのため、とは!

「失踪外国人問題から社会を斬り込むフリをして、実はただ恋人を探しに行ってただけでした~」というギャグなのだとしたら笑えないし、くだらなすぎる。

全編、吹き替えというのもどういうことか。筆者は最初、口の動きと音声が編集ミスでずれてしまっているのだと思っていた。しかしそれはミスではなく、意図的な吹き替えであった。日本映画なのに、テレビで韓国ドラマを鑑賞している気分になる。その意図はなんなのか。日本語が喋れない外国人の場面だけを字幕にするのが手間だった。音声スタッフが雇えなくて、役者の声がうまく拾えていないので吹き替えにしてしまった。この吹き替えさえも、ギャグなのだろうか?

とにかく整合性を考えていては、この作品を鑑賞することはできない。説明することが難しく、まさに百聞は一見に如かず、である。監督は自主製作映画を撮り始めて、四十年ほどのキャリアを持つという。そんなに長いことやっているのなら、少しは上達せんものかねぇ、などと思うが…。

映画「縁の下のイミグレ」(2023)

貧しい家族を支えるため、ベトナムの田舎から【技能実習生】として日本にやってきたハイン(ナターシャ)。
ジャパニーズドリームを夢見て工場で働くも、職場での不遇(賃金未払い)が続いた(ベトナム技能実習生のジャパニーズドリームとは、日本で数年間働いて貯めたお金で、母国に家を建てたり、新しく商売を始める際の資金にすること)。

ハインの様子を不憫に思った日本人の知り合い・土井(堀家一希)は、ネット検索で無料相談できる行政書士事務所を見つけ、相談の予約をする。
訪れた先の行政書士事務所で、曲者の行政書士・近藤(マギー)と、新垣(中村優一)に対応を受けるが、彼らとの対話の中で、ハインが多額の借金をして日本に来ている事情も知り、「技能実習生」の制度の闇が徐々にわかっていく土井。
曲者の近藤は、行政書士の仕事の範囲を超え、ハインをサポートする(はずの)監理団体という団体と直接やりとりをし、それを受けて慌てて監理団体の西村(ラサール石井)も事務所に駆けつけるが、その行政書士事務所に相談したのがハインだとわかると逆にクレームを言い、我々を責めるならハインも一緒に責められるべきだと騒ぎだす。

話が二転三転する中、この国の深刻な労働者不足を外国人で補おうという政策を推進しているおバカ二世議員(猪俣三四郎)も話に加わり、話は思わぬ方向へ・・・。

多くの矛盾を抱えた技能実習制度。果たして、この国に夢を描いてやってきた外国人労働者に未来はあるのか!?外国人労働者を受け入れるこの制度で、労働力不足は補えるのか!?
「安い国ニッポン」の底を支えてる陽の目を見ない外国人労働者にスポットが当てた異色の社会派ブラックコメディ。

(おおまかに、あらすじを紹介)

技能実習制度についてなにも知らない素人にも、制度の仕組みをわかりやすく笑いをとりまぜながら解説する密室劇の構成はこの映画の魅力だが、逆境にくじけそうになりながらも大きな壁に立ちむかっていく主人公・ハインのキャラクター設定は、戦後の美空ひばり映画や往年のスポ根漫画を彷彿とさせ予定調和感がいなめない。お涙頂戴、かわいそうな外国人、技能実習制度を悪用して搾取するばかりの日本・日本企業。物語の構成はあまりにステレオタイプだ。情に流されやすい日本人好みのストーリーである。

そもそも技能実習生はかわいそうなのか?

本作に加えて、技能実習制度をより深く知りたい方には―『ルポ 技能実習生』澤田晃宏/ちくま新書―をぜひ読んでいただきたいものだが、

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確かに日本企業に対しての当たり外れはあり、過酷な労働環境といった問題も存在するらしいものの、三年や五年といった年季を勤めあげることさえできれば、日本に来るまでの借金を払い終えてなお、大金を稼ぐことができ、彼らの母国に錦を飾ることができる現実がある。作中のハインのように、縫製工場が稼げないのなら、と殺場で働くまでで、技能実習制度の期限内までに金を稼げればいいのである。人生のうちの三年や五年などあっという間なのだ。出稼ぎに来る外国人はぬるま湯に浸かりきっている日本人と違ってタフでドライである。

こういった外国人労働者、はたまた移民政策に関する映画や書籍、ネット記事を観たり読んだりしていていつも思いをはせるのは、目を向けなくてはならない本当の問題は、外国人に対する待遇の改善なんかではなくて、そもそも日本人の労働環境が劣悪であり、技能実習生など単純労働に従事する外国人に依存して、少子高齢化・出生数の減少という問題の根源を放置していることだ。上流の水が濁りきっていては、下流の水が澄んでいるはずがない。

日本にやってくる外国人の母国も将来的には経済成長していく中で、どんどんと賃金格差は狭まっていき、もはや四十年近く景気が低迷している日本に出稼ぎに来る意味はなくなっていく。応急処置的につぎはぎだらけの移民政策をしていても、傷は拡がっていくばかりである。

日本人労働者にとって、技能実習生のような年季はない。賃金は上昇し続けてはいるものの、物価高や増税によって、末端労働者に生活のゆとりができたという実感はなく、ただただ時間を浪費して死ぬまで働き続けるだけだ。

この国において技能実習制度や移民政策に関する情報は、日本人労働者・労働環境に対しての写し鏡のようだと言えよう。一部の外国人排斥運動や、外国人かわいそうバイアスをかけたニュースに踊らされることなく、彼らとの対話や共生にも重点を置きながら、日本人や日本という国にとっての国益・メリットを国民ひとりひとりが考えながら、政治を監視しなければいけない時期に来ているのかもしれない。

了

映画「ワイルド・ワイルド・ウェスト」(1999)

米CBSで1965年から放送された同名タイトルのドラマが原作。日本でも放送されていたが人気は出なかったらしい。以下の記事は、筆者がドラマ版のリアルタイム世代ではないため、ドラマ版をリアルタイムでテレビにかじりついて観ていた海外ファンによるネットレビューも参考にしつつ、書いていく。

1999年公開の本作、映画『ワイルド・ワイルド・ウェスト』(以下・WWW)は、ドラマ版とは作風が大きく変わってしまったため、ドラマファンからは即座に名だたる過去の低評価映画の仲間入りをさせられてしまった(原作改悪問題)。

アクションなのかコメディなのか、どっちつかずでただバカ騒ぎするだけの本作は、原作ファンが抱いている作品のイメージをことごとく裏切った。原作は子供向けでもありながら、イギリスの007シリーズのようにクールなスパイものでもあり、アメリカの成人男性が観ても血沸き肉躍るようなマッチョな西部劇の世界でもあったようだからだ。しかし本作は全体的に、漫画じみていて子供だましの演出が続く。

2025年現在、ディズニーが製作した実写版『白雪姫』(2025)が史上最低の改悪だとして、世界中の1937年公開のアニメ版『白雪姫』ファン(そして世界中の映画ファン)を激怒させているが、原作のファンが多ければ多いほど、そのイメージを覆す行為は挑戦でもあり、ほとんどの場合はタブーだ。

しかしながら、たくさんの人間が関わっている映画では、製作側の裏事情が作品のクオリティを左右することは否めない。映画はアートでもあるが、金儲けのための興行でもある。作品の中身がどうしようもなくても、映画館に観客を動員できさえすればいい(興行収入優先問題)。

本作『WWW』について、製作側の企画の立ち上げから完成までの細かい経緯については割愛するものの、キャスティングや監督候補が二転三転し、映画会社やプロデューサーの意見が反映され、立場の弱い監督や脚本家が無茶な意見を飲むこともあり、企画はお蔵入りになりかけ…となれば、コンセプトや原作ファンへの義理立てはどこへやら、製作側の完全なるご都合主義で作品が完成されることはお察しいただきたい。

コンセプトや創作に対する一貫した強い信念がない作品はどういう運命をたどるのか、といえば、三谷幸喜監督の『ラヂオの時間』(1997)の登場人物たちのやりとりや、『影の軍団 服部半蔵』(1980)のアメフト姿の忍者のように、お客様に笑っていただくしかない(ツッコミどころがある作品というのも、もしかしたら広い解釈においての良い映画なのかもしれないが)。

個人的に本作は、アーティまでもがハイテンションにならなければ、ぼーっと観るには楽しめる娯楽作品だったのではないかと思う。地味で停滞気味だった当時の日本映画よりも映画館に行く価値はある。アメリカらしい大味で、CGなど特殊効果を駆使し、カラッとしていて、ウィル・スミスがベリーダンスする女装姿もなかなか可愛かったし…。

原作ファンは、主役がウィル・スミスだったことも気に食わないらしい、「ドラマ版は白人だったのになんで黒人がジム・ウェストなんだ?」という具合で…。どことなく下品で大声で叫ぶ役柄も…(主役のキャスティング及び演技問題)。

だが、そもそも、90年代に60年代の作品をそのまま再現するというのが、さすがに時代にそぐわないことではないか。

80年代に入ると、アーノルド・シュワルツェネッガーやシルベスター・スタローンなどの強靭な肉体を誇るパワフル系の俳優が存在感を増し始めて、アクションやバイオレンス系の映画が増えた。と同時に、元コメディアンのエディ・マーフィやジム・キャリー、ロビン・ウィリアムズのようにハイテンションな芸風の俳優も登場し始めた。彼らはそのまま90年代にかけて円熟味を増していって、その時代の顔にもなっていくわけだが、初めは肉体派だったシュワちゃんやスタローンもコメディ映画に出演するようになった、というように90年代は、本作『WWW』の酷評ポイントだったー漫画じみていて子供だましの演出-をするような時代でもあった、という一面もある。

それは時代の空気によって、求められる好みも変わっていったからだと思うのだ。筆者の記憶でも、90年代は、現在よりも明るいコメディ映画が多かったような気がする。

そして上記の俳優は、元ボディビルダーだったりコメディアンだったり、初めから俳優畑でキャリアを積んでこなかった。本作を主演したウィル・スミスも元はラッパーである。もともと演劇・映画畑とは別畑の彼らに、シリアスな演技を業界が求めていなかったのではないかと筆者は考えている。役柄だって、正統派の俳優より、賑やかしのようなものが多い。

という理由によって、本作でのウィル・スミスの演技は彼自身のミスでも文脈にそぐわない行為でもなんでもなく、時代と製作側のお膳立てによってできあがったものである。

古参の原作ドラマファンには申し訳ないが、メル・ギブソンやトム・クルーズ(ウィル・スミス以前に主役打診されていた面々)にキャスティングを断られ、主演がウィル・スミスになり、監督が『メン・イン・ブラック(以下・MIB)』(1997)でタッグを組んだバリー・ソネンフェルドと決まった時点で、原作に忠実にするよりも、『MIB』と同じバディものである『WWW』を『MIB』の焼き直し作品のように、再利用したほうが得策だと考える業界人がいるのは当然だろう。ヒット作の模倣は安全で安心な結果をもたらす率が高いからである。

それにしても、黙って西部劇版『MIB』の評価に収まっておけばよかったのに、全体のバランスを崩してまでも、騒がしくて目立ちたがりなアーティを演じてしまったケヴィン・クラインの罪は大きい。その一点が悔やまれる。

映画「クレンズ・フレンズ」(2018)

ソニーピクチャーズの公式youtubeチャンネルで、2018年にアメリカで公開された「クレンズ・フレンズ」という作品が無料公開されていた。

まったくの予備知識がない作品なので、インターネットで検索をかけてみると、ホラー/コメディに分類されているらしい。私は怪談や精神的に迫ってくるようなホラーはわりと好きなほうなのだが、海外の人間が作る、スプラッターとか肉体的苦痛を伴うようなホラーは大の苦手である。というより、大嫌いだ。

おそるおそる鑑賞する…。

初めに、ソニーピクチャーズの公式HPに紹介されている、あらすじを記しておこう。

傷心の男性が、自分自身を浄化して壊れかけた人生を修復しようと、スピリチュアル系のリトリートに参加する。そこで彼は同じように悩める仲間と出会い、共に“クレンズ”というデトックス法を行う。ところが体から排除されたのは、日々の毒素だけではなかった…。

まったくホラーではなかった。言葉の行間を読むような、シュールなコメディテイスト。ホラーを思わせる気持ち悪いものと言えば、登場人物の身体から出てきた不気味なポケモンのようなもの、だけである。作品自体は、人生の岐路に立たされた登場人物たちがどうやってその困難を乗り越えるのかということを主題にした、純然たる人間ドラマである。

映画としては、特に目新しい工夫があるわけでもないし、ストーリー展開も奇抜だというわけでもない。上映時間も一時間ちょっとなので、長編映画というよりは「小品」という印象である。だからと言って、駄作だとか、平凡だとか、つまらなかったというわけではない。むしろ、個人的には意外と良作だったな、と思った。

なぜ良作だと思ったのかというと、まず、ストーリーが単純でわかりやすい。作品の構成がシンプルなので余計なことを考えずに済むということがある。俳優の演技や、体内から排出されたモンスターがなにを象徴しているのか、を考えることに集中できるのだ。そしてなにより、俳優が名バイプレーヤーばかりなのだ。

アメリカ映画をよく観ている人ならば、一度は顔を目にしたこともあるだろう、オリヴァー・プラット。アダムスファミリーのお母さん役でお馴染みのアンジェリカ・ヒューストン。主人公のポールは、2000年公開の「偶然の恋人」で口の達者なゲイのセス役をやったジョニー・ガレッキ。2022年公開の「ディナー・イン・アメリカ」で伝説的パンクバンドのフロントマン役をやったカイル・ガルナ―など…。

キャスティングが実力派勢ぞろいなので、画面に説得力がある。地味に見えるのに、豪華である。日本の伝統工芸のように、華やかさはないが、わび・さびの世界が漂っている。

あと、もうひとつ。登場人物が体内から吐き出したモンスターに手作り感があることが魅力だ。特殊技術に詳しいわけではないので、どうやって作ってどうやって動かしているのかはわからない。動かない模型を作って、あとでCG処理をほどこしているのか。ストップモーションアニメのように、関節の動く模型を一コマずつ動かしながら撮影し、作り上げているのか。しかし、これだけは言える、ということは、そのモンスターの動き方を見て、監督の映画への愛を感じる、ということだ。

大作にしろ、低予算作品にしろ、昨今はCGだかVFXだかでどれも似たり寄ったりの映像表現になってきているなかで、手作り感というのは貴重な存在意義を示しはじめている。観客の心にじわじわ染みこんでいく、するめのような味わいだ。

本作の脚本・監督を担当したのは、ボビー・ミラーといって、調べてみると手掛けた作品数もそう多くない、新人のようだ。

監督が運営しているらしきウェブサイトを発見した。

https://www.bobbymillertime.com

過去に、ショートフィルムを数本作って映画祭へ出品した後、本作が監督にとっての劇場長編映画デビュー作になっているらしい。

彼のウェブサイトにアップロードされている、ショートフィルム(『TAB』と『END TIMES』)には、「クレンズ・フレンズ」に通ずる、監督の人柄や作風が垣間見れて、今後彼の作品を観る際の良い参考になるだろう。

それにしても、ポールやマギーは心の闇に一見打ち勝ったものの、どういう人生をこれから歩んでいくのだろうか?

映画「ファースター 怒りの銃弾」(2010)

スタッフ

監督、ジョージ·ティルマン·Jr。音楽、クリント·マンセル。脚本、トニーとジョーのゲイトン兄弟で、兄のトニーはプロデュースにも参加している。

音楽を担当したクリント·マンセルは、ポップ・ウィル・イート・イットセルフというバンドの元ボーカリスト。YouTubeで聴いてみたところ、メタルやシューゲイザー、DJやシンセサイザーを使ったエレクトロニックなサウンドがごちゃまぜになったミクスチャーバンドのようだ。バンド脱退後は映画音楽に専念しているとのこと。本作のサウンドトラックは、バンド時代の音楽性を醸しだしつつも、作品の内容に寄り添ったミステリアスな雰囲気を漂わせている。

見どころ①

冒頭の約10分が秀逸。主人公がどういう人物なのかがそれとなく説明されるのだが、何気ないシーンでありながらも『復讐』というテーマをうまく表現している。

刑務所の自室の壁に貼られている、主人公と仲良さそうに肩を組む男の写真。観客に、親友か兄弟だろうか?と思わせる。その写真を、決意を新たにしたような、『復讐』心に燃えるような目つきで眺める主人公。部屋の鍵が開けられ、刑務官に付き添われながら所長室まで歩く間、部屋に閉じ込められた他の受刑者が主人公に向かって悪態をつきながら、怒りに満ちた表情で叫んでいる(後の所長のセリフで判明するのだが、主人公に売った喧嘩を買われ、彼らは手ひどい仕返しを受けている)。彼らの態度も、作品のテーマである『復讐』を暗示させている。所長室にて、所長との会話をしていても、主人公は出所までの時間ばかりを気にしていて、さっさと刑務所を出たくてうずうずしている。刑務所を出るときの金網の開け方も、引きちぎって投げ捨てるような動作である(この場面も『復讐』心で煮えたぎった感情を表している)。

外に出て、辺りを見渡す。刑務所の外は砂漠地帯で、熱くてヒリヒリするような心情を代弁する。ここでマカロニ・ウェスタンで聴くようなエレキギターの音と共に、1970年前後のハードロックのようなBGMが流れ、観客は物語がどのように展開されるかまだ知らないけれども、暗示に満ちた巧みな冒頭シーンのおかげで、なんとなく主人公と同じ気持ちになっていて、居ても立っても居られない気分になる…。具体的なエピソードは一つも話していないのに、暗示シーンや主人公の動作によって、いつの間にか観客は主人公の味方になっているのだ…。

見どころ②

自動車は、本作の重要な構成要素の1つだ。

刑務所を出ると、主人公(以後、ドライバー)は、おもむろに走り始め、近くの廃車置き場にたどり着く。そこで、主役とワンセットになって活躍する車が登場する。黒の70’s シボレー シェベルSS(車体の真ん中に太い白線が2本描かれている)だ。存在感と意志の強そうな車体は、ドライバー自身を表しているようだし、車体にペイントされた2本の白線は、ドライバーと兄の絆を思わせる。

上記の車とは別に、回想シーンで、銀行強盗時にドライバーが使用していたのが、オレンジのポンティアック GTO 1967。劇中歌に1970年前後のハードロックが多用されているのはなぜだろうと思いながら鑑賞していたのだが、なるほど、小道具として使用された往年のマッスルカーとの調和を考えて、選曲されたのだろうと想像する。

見どころ③

ドライバーを含めたその他のメインキャラクターの造形も巧みだ。

離婚して一人息子の親権争い中のドラッグ依存症刑事、役名コップ。

親権争いをさせることで、人物の家庭的な雰囲気、小市民感が演出できるし、物語の本筋とはまったく関係ないのだが、コップの小さな日常の争いをかいま見せることで、観客は潜在的に、円満に解決してほしいと思うようになる(人類は昔から、争いが起これば、敵を倒すか対立している者同士をなだめすかして解決するしか選択肢がないわけだが、コップと小競り合いしている妻を殺すわけにはいかない。ならば、なんとかしてなだめすかすしか方法はない)。その観客の感情がラストシーンでの伏線回収に生きてくる。加えて、ドラッグ依存症という設定にすることで、警察官と犯罪者の線引が曖昧になり、犯罪者を罰する立場の警察官が実は犯人グループの一味だった、というようなどんでん返しに持っていけるようになる。

何者かにドライバーを殺すよう依頼された、殺し屋、役名キラーも可愛い。

キラーは一見、冷徹で非の打ち所がない人物のように見える。美人のブロンド彼女もいて(彼女も殺し屋)、眺めのいい豪邸に住んでいる。部屋の壁には大量の武器が隠された収納庫がしかけられている。まるで、ブラッド・ピットとアンジェリーナ・ジョリーがダブル主演した映画「Mr&Mrsスミス」や、007シリーズの世界観だ。しかしのちに判明することだが、キラーは幼少時、先天的に足が悪くてギプスをはめて生活していた。足の付け根から足先まで大きな傷跡が残っていて、大手術と辛いリハビリを乗り越えてきただろうことが察せられる。家に飾ってある写真からは、武道の鍛錬を積んだり、標高の高い雪山登山に挑戦した様子も伺える。最近もヨガの難しいポーズをクリアしたと嬉しそうに彼女に伝えていて、本当に努力家で健気な男なんだ!…

その他、脇役に付随する脇役たちも、殺される直前に人間味溢れる言い訳をのべたり、家庭を持って更生しようとしている様が描かれていたりして、それぞれに卑小な小悪党感がよく出ていて、ドライバーの憎しみ(観客の憎しみ)の対象なんだからさっさと殺されて然るべきなのに、どこか同情したくなる、というか、共感すべき存在に仕立てられている。

あとがきのようなもの

そういえば、キラーの携帯電話の着メロが、マカロニ・ウェスタンの傑作「続·夕陽のガンマン 地獄の決斗」のテーマ曲なのだけど、英題が「The Good, the Bad and the Ugly」、つまり「良い奴、悪い奴と卑劣な奴」で、ここにも本作の主要キャラクター3人を暗示させるような伏線が張られている。もちろん、ドライバーが良い奴で、キラーが悪い奴、コップが卑劣な奴だ。

まとめ

特に目立つ映画ではないのだが、脚本がよくできていて、どんな人でも楽しめる作品になっていると思う。ハリウッド映画の定石を忠実に守っている、というか。

展開の仕方や各パートの時間配分、目安となるシーン数はまさにブレイク·スナイダー著「SAVE THE CAT」で示されたお手本通り。感情移入しやすいキャラクター造形、小道具の使い方や音楽も良いバランスで調和している。

無惨な殺され方をした愛する兄貴の無念をはらすため、憎き敵グループのメンバーを1人ひとり虱潰しにぶっ殺していく、人間の動物的本能を強くゆさぶる、原始人にもわかる傑作物語だ。

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映画「サイダーのように言葉が湧き上がる」(2021)

アニメ音楽レーベル『フライングドッグ』設立10周年記念作品。監督・イシグロキョウヘイ、脚本・イシグロキョウヘイ&佐藤大、音楽・牛尾憲輔、主題歌・never young beach、主要キャラクターの声優に市川染五郎、杉咲花、花江夏樹、山寺宏一などがいる。

普段からアニメ作品をよく観るわけではないからか、今作の製作に関わった会社やスタッフについての知識、情報は皆無である。

メインキャラクターは、コミュ障の少年・チェリーと特徴的な前歯をマスクで隠す少女・スマイル。

二人のバイト先のデイサービスを利用する老人・フジヤマは、彼の若き日の妻が出したレコード(妻はシンガーソングライター?)を探し続けている。

チェリーとスマイルは、そのレコードを共に見つけ出す行為を通じて、友情と恋心を深めながら、お互いのコンプレックスを克服していく、青春物語。

星五つを最大評価とするならば、冒頭は星一つから始まり、ラストは星五つ、が筆者の感想だ。
尻つぼみならぬ頭つぼみ…。
終わり良ければすべて良しじゃないか、との声も聞こえるが、冒頭(いわゆる、つかみ)のシーンが個人的に気に食わなかった(むしろ最悪)だけに、冒頭シーン含めて、もっと丁寧に物語の各パートをつないでいたなら、作品の印象は大きく変わっただろう。
製作中に作品全体の雰囲気が定まっていなかったのかもしれない。
後半が徐々にしっとりとしてきていい雰囲気に盛り上がっていくだけに、特に前半のコミカル(下品)部分が鼻につく。

大きく挙げて二点。

例えば、チェリーとスマイルが劇的に出会うシーンにトリックスター(狂言回し)としてビーバーというキャラクターが登場するが、彼は単なる犯罪者だ。
ショッピングモール内の商品を盗難し、スケートボードで激しく迷走·爆走しながら館内の客を危険にさらし、言葉を覚えるためと称してタギング(落書き)を繰り返す。
作品を観た、特に若い観客は、ビーバーの行為を、作品の冒頭を清新なものにするためのカンフル剤だとして、割り切って眺められるのだろうか?


耳が遠いからといって、白目を剥いて突然絶叫するフジヤマも理解しがたい。作中の後半、フジヤマはおとなしい滋味深いキャラクターとして描かれるのに、なぜ冒頭シーンだけ、突然狂気を発症する謎設定が繰り返されるのか。

性欲が減退した老人が(それに年をとったら童貞かどうかなんてどうでもよくならないか?)、あだ名のチェリー(そもそも仕事場の名札にチェリーなんてあだ名書いとくなよ)に関連付けて「おぉ!チェリーボーイっ!」と童貞をおちょくるセリフを放つことも疑問だ。キャラクターに名前をつけるとき、チェリーボーイ→チェリー→「佐倉を本名にしよう!」の連想ゲームに、そしてこのセリフをじいさんに言わせようとする脚本家に、一番の童貞くささを感じる。
観客の心をつかむための冒頭シーンで(爽やかそうなタイトルと映像美の中で)これらの行為を見るにつけ、筆者の心の扉は、ギギギ…と閉まりかかるのである。

タイトルほど、チェリーがSNSで配信する俳句に、湧き上がる思いや動感を感じないのもひっかかる。口下手ではあっても、もっと活発で動きのある少年を演出することで爽やかさが増したり、俳句にプロの監修をつけることで、より観客にチェリーの俳句を通して気持ちが伝わったのでは、とも思う。

愚痴ったらしくなったが、現代を象徴するショッピングモールやSNSをメインモチーフにしながら、古臭い、レトロと呼ばれるようになった俳句と、シティポップのアルバムジャケットのようなカラフルでビビッドな映像との取り合わせは、斬新で面白い。
古さを題材としながらも、もはや一周まわって令和の時代に完全にマッチした新しさも感じさせた。
その意味では、近年のシティポップブームで再評価された(?)大貫妙子が歌う劇中歌「YAMAZAKURA」も、数十年前の歌にも聞こえれば、現在の新人アーティストがリリースした曲だといっても違和感ない現代性を感じさせて、時代感覚を麻痺させる、絶妙なバランスが混ざり合っている曲調で印象深かった。

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