アッパレやってまーす!木曜日

2024年1月25日、MBSラジオで放送(23:30〜25:00)されている『アッパレやってまーす!木曜日』(通称·やり木)を聴いていて不思議に思うことがあった。

リスナーメールにて、「1時間弱と聞いて、それは1時間より短いと思いますか、1時間以上経過していても1時間弱という言葉を使いますか?伝々…」というような質問を聴いたことによる。筆者の感覚では、例えば待ち合わせをしていたときに「すいません。待ち合わせ時間より1時間弱遅れます」と言われれば、50分くらい遅れるのかな?と思う。少し早く来るとして、大きな幅を見積もっても、40分後〜までを想定するだろう。しかし、なんでもそのリスナーによると、『最近の若者は、1時間よりももう少し時間のかかる、例えば1時間10分までもが「1時間弱」と捉えている』というのだ。若者とバカ者にもよるだろうが…。

例えば、1時間10分は「1時間強」、または「1時間ちょっと」と表現するだろう。遅くなるか早くなるかわからないにしても10分くらいの誤差なら「1時間ほど」になって、1時間10分が「1時間弱」になることはない。

この類の質問は小さい子供の頃にするものではないか?

料理の世界で作り方を言葉で伝えるとき、「中火」は弱と強の中間地点に存在する。「中火」と口を衝いて出れば、それはまぎれもなく、弱火でもなく強火に傾くでもない中間地点に存在する「中火」である。

その中間地点にある「中火」の概念が揺らいでしまって、弱火で焼いてくださいというのに強火で焼いて焦がしてしまったり、強火で炒めてくださいというのに弱火で炒めて生の状態で完成されたら、料理教室·料理番組·家族による味の相伝はいっさい成り立たなくなる。

1時間、はどの人間にも共通する確固とした時間の流れであって、「1時間弱」と言えば、1時間10分ではなく50分くらい、という決まった言い回しである。薪をくべて火を起こす時代ならいざしらず、「中火」と言えば、ガスコンロの最弱と最強の中間地点につまみを移動させるのが「中火」だ。

どちらも曖昧なことなどなにもない言葉だ。それなのに、そのような言葉を無知によって誤用し続ければ、言葉によって共同生活をしている人間社会が混乱をきたしてしまうだろう。確固とした意味を持つ言葉や概念の共通認識の徹底こそが、円滑に他人とコミュニケーションするための、社会人として必要な「常識」、「一般教養」の必要性ではないか?

先述の「1時間弱」論争ではレギュラーメンバーの6人中5人は「1時間弱」は50分くらいだろうとの意見で落ち着いたが、また話の流れで、「夕方」は何をもって「夕方」と呼ぶのか、という論争が巻き起こった。夕陽が沈めば夕方ではなく夜と呼ぶのだろうという意見と、時間で区切って16〜18時までが明るかろうと暗かろうと夕方だろうとの意見に分かれた。

この話はちと微妙だろう。辞書でひけば夕方·夕刻は日暮れ時と出る。時計が浸透する以前の人々は、方角や時間、季節の移り変わりを空を観察することによって決めていたわけだから、辞書をひかずとも日が沈んで暗くなれば夜である。

しかし、自然の移ろいに無頓着になり、時間=時計の数字、になってしまった現代人は、夏と冬で日没の時間が変わるような不安定な「夕方」に右往左往するよりも、16〜18時と決めてしまったほうが滞りないのだろう。

バイク屋に修理をお願いしていたドランクドラゴンの鈴木氏がバイク屋に、「夕方来てください」と言われ18時頃たずねたら、ものすごい剣幕で怒られた、とのエピソードは災難ものである。

言葉は人によって連想するイメージが違うので、会話をしていても行き違うことはしばしばだが、今回のような「時間」はどの人間にとっても、1時間なら同じ1時間が流れている。時計に支配された現代人において、Aさんの1時間がBくんの2時間でありCちゃんの3時間であるわけがない。

「1時間弱」論争は、言い回しを知らない無知が引き起こした事件なのでともかくも、「夕方」のような、共通認識、常識で対処が可能であるように見せかけて曖昧な言葉に関しては、その都度、相手に具体的な意味を確認することが必要なのかもしれない。

SNSでもご購読できます。

コメントを残す

*