2024年

昨年末に放送していた松本清張原作ドラマ『黒革の手帳』が録画してあったので観た。
『黒革の手帳』は過去何回もリメイクされてテレビで放送されてはいるが、個人的に、本作を観たのは今回が初めてだ。

最初にことわっておくと、ここでドラマの感想を語るつもりはない。原作も読んでからにしたいし、映像化された他のバージョンも観て比較してみたい。
それよりも、なにより驚いたことは、そして今回の論題は、「このドラマは2004年に放送されたものです」の字幕を見つけたことにある。

2004年…。
20年前?

2024年が明けて2日経った現在、2004年は、もはや最近、とは言えない、20年前、という圧倒的な月日の経過を意味する。
それなのに私が、20年も前の、作品に感じられないのは、作品世界の普遍性によるものでもなく、ドラマの演出家の工夫や苦労によるアレンジ力によるものでもなく、芸能人のたえまない努力や人目にさらされることによる、若々しさを目にしているからでもない(多少は影響しているだろうが)。
潜在的に自覚しているとおり、私の中で、
時が止まっている、
のだと思う。
私の頭の中のデジタル時計はどこか2020年、もっと言うと2010年くらいで止まっている、のかもしれない…。時間が刻々と進んでいることを受け入れていない。

これから時代がさらに下っていけば、さらに自分が体感している、一昔前、や、最近、は、実際の世間の時間の流れと時差が拡大し、遠くなっていくだろう。簡単に言えば、いつまで経っても、私にとっての一昔前は80年代、90年代であり、2000年以降はつい最近である。2024年になり2034年になっても、一昔前、は80、90年代であり、つい最近、は2000年以降なのだ。やがて2054年に2004年の映像作品を鑑賞して、「つい最近の作品じゃないか」と考えるのと同時に、つい最近が50年前であることに恐怖することになる。

2010年生まれは2024年に決して驚かないだろう。大人になった2010年生まれにとって、2024年など、つい最近、だからである。
しかし私は違う。

2024年なんて、近未来SFの創作物でしか登場しなかったじゃないか!世界中を高層ビル群が埋め尽くし、その建物の間をチューブが隙間なく張り巡らされている。そのチューブの中を人間、もしくは車らしきものが縦横無尽に移動する。
そして私は若かった。

年寄りがいつまでも話題をアップデートしないのも納得だ。

私の生年月日を聞いて「つい最近じゃないか」と言った過去の年配者に思いを馳せる。
祖父母やさらに遡った先祖に思いを馳せる。
20世紀を迎え、ノストラダムスの大予言に怯えながら21世紀を迎えた、一昔前の人々。

2024年、なんて、なんとおぞましい言葉だろう。
せっかく2023という数字に慣れてきたばかりだったというのに…。

「昔は良かった」と一人ごちる老人にはなりたくない。

#364

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