映画「ワイルド・ワイルド・ウェスト」(1999)

米CBSで1965年から放送された同名タイトルのドラマが原作。日本でも放送されていたが人気は出なかったらしい。以下の記事は、筆者がドラマ版のリアルタイム世代ではないため、ドラマ版をリアルタイムでテレビにかじりついて観ていた海外ファンによるネットレビューも参考にしつつ、書いていく。

1999年公開の本作、映画『ワイルド・ワイルド・ウェスト』(以下・WWW)は、ドラマ版とは作風が大きく変わってしまったため、ドラマファンからは即座に名だたる過去の低評価映画の仲間入りをさせられてしまった(原作改悪問題)。

アクションなのかコメディなのか、どっちつかずでただバカ騒ぎするだけの本作は、原作ファンが抱いている作品のイメージをことごとく裏切った。原作は子供向けでもありながら、イギリスの007シリーズのようにクールなスパイものでもあり、アメリカの成人男性が観ても血沸き肉躍るようなマッチョな西部劇の世界でもあったようだからだ。しかし本作は全体的に、漫画じみていて子供だましの演出が続く。

2025年現在、ディズニーが製作した実写版『白雪姫』(2025)が史上最低の改悪だとして、世界中の1937年公開のアニメ版『白雪姫』ファン(そして世界中の映画ファン)を激怒させているが、原作のファンが多ければ多いほど、そのイメージを覆す行為は挑戦でもあり、ほとんどの場合はタブーだ。

しかしながら、たくさんの人間が関わっている映画では、製作側の裏事情が作品のクオリティを左右することは否めない。映画はアートでもあるが、金儲けのための興行でもある。作品の中身がどうしようもなくても、映画館に観客を動員できさえすればいい(興行収入優先問題)。

本作『WWW』について、製作側の企画の立ち上げから完成までの細かい経緯については割愛するものの、キャスティングや監督候補が二転三転し、映画会社やプロデューサーの意見が反映され、立場の弱い監督や脚本家が無茶な意見を飲むこともあり、企画はお蔵入りになりかけ…となれば、コンセプトや原作ファンへの義理立てはどこへやら、製作側の完全なるご都合主義で作品が完成されることはお察しいただきたい。

コンセプトや創作に対する一貫した強い信念がない作品はどういう運命をたどるのか、といえば、三谷幸喜監督の『ラヂオの時間』(1997)の登場人物たちのやりとりや、『影の軍団 服部半蔵』(1980)のアメフト姿の忍者のように、お客様に笑っていただくしかない(ツッコミどころがある作品というのも、もしかしたら広い解釈においての良い映画なのかもしれないが)。

個人的に本作は、アーティまでもがハイテンションにならなければ、ぼーっと観るには楽しめる娯楽作品だったのではないかと思う。地味で停滞気味だった当時の日本映画よりも映画館に行く価値はある。アメリカらしい大味で、CGなど特殊効果を駆使し、カラッとしていて、ウィル・スミスがベリーダンスする女装姿もなかなか可愛かったし…。

原作ファンは、主役がウィル・スミスだったことも気に食わないらしい、「ドラマ版は白人だったのになんで黒人がジム・ウェストなんだ?」という具合で…。どことなく下品で大声で叫ぶ役柄も…(主役のキャスティング及び演技問題)。

だが、そもそも、90年代に60年代の作品をそのまま再現するというのが、さすがに時代にそぐわないことではないか。

80年代に入ると、アーノルド・シュワルツェネッガーやシルベスター・スタローンなどの強靭な肉体を誇るパワフル系の俳優が存在感を増し始めて、アクションやバイオレンス系の映画が増えた。と同時に、元コメディアンのエディ・マーフィやジム・キャリー、ロビン・ウィリアムズのようにハイテンションな芸風の俳優も登場し始めた。彼らはそのまま90年代にかけて円熟味を増していって、その時代の顔にもなっていくわけだが、初めは肉体派だったシュワちゃんやスタローンもコメディ映画に出演するようになった、というように90年代は、本作『WWW』の酷評ポイントだったー漫画じみていて子供だましの演出-をするような時代でもあった、という一面もある。

それは時代の空気によって、求められる好みも変わっていったからだと思うのだ。筆者の記憶でも、90年代は、現在よりも明るいコメディ映画が多かったような気がする。

そして上記の俳優は、元ボディビルダーだったりコメディアンだったり、初めから俳優畑でキャリアを積んでこなかった。本作を主演したウィル・スミスも元はラッパーである。もともと演劇・映画畑とは別畑の彼らに、シリアスな演技を業界が求めていなかったのではないかと筆者は考えている。役柄だって、正統派の俳優より、賑やかしのようなものが多い。

という理由によって、本作でのウィル・スミスの演技は彼自身のミスでも文脈にそぐわない行為でもなんでもなく、時代と製作側のお膳立てによってできあがったものである。

古参の原作ドラマファンには申し訳ないが、メル・ギブソンやトム・クルーズ(ウィル・スミス以前に主役打診されていた面々)にキャスティングを断られ、主演がウィル・スミスになり、監督が『メン・イン・ブラック(以下・MIB)』(1997)でタッグを組んだバリー・ソネンフェルドと決まった時点で、原作に忠実にするよりも、『MIB』と同じバディものである『WWW』を『MIB』の焼き直し作品のように、再利用したほうが得策だと考える業界人がいるのは当然だろう。ヒット作の模倣は安全で安心な結果をもたらす率が高いからである。

それにしても、黙って西部劇版『MIB』の評価に収まっておけばよかったのに、全体のバランスを崩してまでも、騒がしくて目立ちたがりなアーティを演じてしまったケヴィン・クラインの罪は大きい。その一点が悔やまれる。

映画「クレンズ・フレンズ」(2018)

ソニーピクチャーズの公式youtubeチャンネルで、2018年にアメリカで公開された「クレンズ・フレンズ」という作品が無料公開されていた。

まったくの予備知識がない作品なので、インターネットで検索をかけてみると、ホラー/コメディに分類されているらしい。私は怪談や精神的に迫ってくるようなホラーはわりと好きなほうなのだが、海外の人間が作る、スプラッターとか肉体的苦痛を伴うようなホラーは大の苦手である。というより、大嫌いだ。

おそるおそる鑑賞する…。

初めに、ソニーピクチャーズの公式HPに紹介されている、あらすじを記しておこう。

傷心の男性が、自分自身を浄化して壊れかけた人生を修復しようと、スピリチュアル系のリトリートに参加する。そこで彼は同じように悩める仲間と出会い、共に“クレンズ”というデトックス法を行う。ところが体から排除されたのは、日々の毒素だけではなかった…。

まったくホラーではなかった。言葉の行間を読むような、シュールなコメディテイスト。ホラーを思わせる気持ち悪いものと言えば、登場人物の身体から出てきた不気味なポケモンのようなもの、だけである。作品自体は、人生の岐路に立たされた登場人物たちがどうやってその困難を乗り越えるのかということを主題にした、純然たる人間ドラマである。

映画としては、特に目新しい工夫があるわけでもないし、ストーリー展開も奇抜だというわけでもない。上映時間も一時間ちょっとなので、長編映画というよりは「小品」という印象である。だからと言って、駄作だとか、平凡だとか、つまらなかったというわけではない。むしろ、個人的には意外と良作だったな、と思った。

なぜ良作だと思ったのかというと、まず、ストーリーが単純でわかりやすい。作品の構成がシンプルなので余計なことを考えずに済むということがある。俳優の演技や、体内から排出されたモンスターがなにを象徴しているのか、を考えることに集中できるのだ。そしてなにより、俳優が名バイプレーヤーばかりなのだ。

アメリカ映画をよく観ている人ならば、一度は顔を目にしたこともあるだろう、オリヴァー・プラット。アダムスファミリーのお母さん役でお馴染みのアンジェリカ・ヒューストン。主人公のポールは、2000年公開の「偶然の恋人」で口の達者なゲイのセス役をやったジョニー・ガレッキ。2022年公開の「ディナー・イン・アメリカ」で伝説的パンクバンドのフロントマン役をやったカイル・ガルナ―など…。

キャスティングが実力派勢ぞろいなので、画面に説得力がある。地味に見えるのに、豪華である。日本の伝統工芸のように、華やかさはないが、わび・さびの世界が漂っている。

あと、もうひとつ。登場人物が体内から吐き出したモンスターに手作り感があることが魅力だ。特殊技術に詳しいわけではないので、どうやって作ってどうやって動かしているのかはわからない。動かない模型を作って、あとでCG処理をほどこしているのか。ストップモーションアニメのように、関節の動く模型を一コマずつ動かしながら撮影し、作り上げているのか。しかし、これだけは言える、ということは、そのモンスターの動き方を見て、監督の映画への愛を感じる、ということだ。

大作にしろ、低予算作品にしろ、昨今はCGだかVFXだかでどれも似たり寄ったりの映像表現になってきているなかで、手作り感というのは貴重な存在意義を示しはじめている。観客の心にじわじわ染みこんでいく、するめのような味わいだ。

本作の脚本・監督を担当したのは、ボビー・ミラーといって、調べてみると手掛けた作品数もそう多くない、新人のようだ。

監督が運営しているらしきウェブサイトを発見した。

https://www.bobbymillertime.com

過去に、ショートフィルムを数本作って映画祭へ出品した後、本作が監督にとっての劇場長編映画デビュー作になっているらしい。

彼のウェブサイトにアップロードされている、ショートフィルム(『TAB』と『END TIMES』)には、「クレンズ・フレンズ」に通ずる、監督の人柄や作風が垣間見れて、今後彼の作品を観る際の良い参考になるだろう。

それにしても、ポールやマギーは心の闇に一見打ち勝ったものの、どういう人生をこれから歩んでいくのだろうか?

書籍「くよくよしない力」フジコ・ヘミング

本書は、2000年から2016年までに出版されたフジコ・ヘミング氏の書籍を参照しつつ(巻末にrefference listと記載)、彼女への過去のインタビューからエピソードを45個分抜粋して、その各エピソードから、特徴的で示唆に富む言葉を一言ずつ提示して、読者やファンへの金言集として構成したような組み立て方になっている。

例えば、part1の『愛しなさい!幸せが待っている』の中で紹介されている一つのエピソードでは、

―幸福と不幸は半分ずつ
 一生、幸福の人はいないし
 一生、不幸の人はいない

と題し、シャンソン歌手のマリア・カラスや彼女自身の人生を引き合いに出しながら、人生には良い時もあれば悪い時もあり、無理に幸せを作ることはできないし、抗おうとしても運命を変えることはできないと説明し、

「運命も人生も変えることはできない。今を受け入れることが大切。」

というワンポイントアドバイスで結ぶ。

フジコ・ヘミング名義で出版されている書籍は、その時々で少しずつテーマが変えられてはいるものの、彼女の人生についてインタビューしたものを聞き書きしているという点で、紹介されているエピソードは共通したものが多い。本書も、他の書籍で読めるようなエピソードが掲載されていて、フジコ・ヘミングファンとしては聞き馴染みのあるものばかりだが、しかし、細かい所に注目してみると、新たな情報に出会うことができるので、見落としたり流し読みをすることは禁物だ。
特に、戦争についてや両親、読書、映画や映画俳優についての話題は面白い。彼女がクラシックだけではなく、ジャズやロック、シャンソンに民謡、演歌も好きで、美空ひばりから観客へのアピールの仕方を学んでいる点も興味深かった。
クラシックファンもそうでない人も、フジコファンもそうではない人も、波乱万丈な人生を送ってきた彼女の言葉に勇気づけられたり、くじけそうになっている心が救われることもあるに違いない。

本書は第一刷が2018年に発行されているが、ほぼ内容は同じままで加筆・修正されて、2022年に『「幸福」と「不幸」は半分ずつ。』(PHP文庫)という文庫版が出版されている。
掲載されている写真が数枚ほど変更されている他、巻末の「文庫版に寄せて」というあとがきのような部分でロシアのウクライナ侵攻やコロナについて言及し、小倉百人一首の藤原清輔朝臣(ふじわらのきよすけあそん)の歌を引用しながら、ひたむきに自分の人生に向き合っていれば、きっと神様は見ていてくださるだろう、と励ましの言葉を添えていることが印象的だ。

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書籍「我が心のパリ」フジ子・ヘミング

フジコ氏がいままでに住んだパリの家を紹介しながらパリの街についても語るスタイルは、『私が歩んだ道、パリ』(ぴあ株式会社)と似た部分があるが、本書はより、彼女の芸術談や人生談について学ぶことができる。

柔らかくマットで、ややハイキーな写真も美しく、フジコが集めた小さい道具やテーブルに置かれた果物のアップの写真などが彼女の生活感をリアルに伝えてくれる。ところどころに載せられた彼女の描いた猫の絵も可愛い。

デザイナーでもあった父親の才能が遺伝したのか、小さい頃から絵を描くのが好きだったようで、彼女が絵を描いている姿を見ることができたり、同じ日本人で猫好きだった藤田嗣治に言及した折、パリで活躍した芸術家の話から芸術についての話、ひいては、どんな苦境に立たされても前向きに生きるための心得を語ったり、ためになる話がいくつも出てくる。

パリで生きるアーティスト同士、感じるものがあるのか、それとも、フジコも苦労をしてきただけ他人の苦しみや痛みが理解できるのか、社会の外側で生きるパリの大道芸人にも優しい眼差しをかける。サンジェルマン・デ・プレのカフェで遭遇した大道芸人のおばあさんと犬のエピソードが特に興味深い。

戦時中に飼っていたチャロという犬が日本軍に殺されてしまった話や、マリー・アントワネットの最期について、前記のような、決して報われなかったパリの芸術家について、はたまた大道芸人についてなど、本書全体に死の匂い、または哀愁が色濃く漂っている。

フジコやパリの街の人々を撮影した色気のあるざらついた質感のモノクロ写真に、エルスケンの『セーヌ左岸の恋』を思い出したり、巻末のソフトフォーカスがかかったメリーゴーラウンドの写真にフランソワ・トリュフォーの『大人は判ってくれない』を連想させることができた。

数々のアート作品やフジコの挿話などからパリは、明るく派手なばかりではない、物悲しく朽ちていくような孤独のイメージが筆者の頭の中に広がっていくが、その、孤独で個人主義で、日本でもドイツでもできなかった自由に生きていける雰囲気に、彼女は魅かれたのだろう。

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書籍「私が歩んだ道、パリ」イングリット・フジコ・ヘミング

本書はフジコ・ヘミングの半生を通して、不遇な時代の多くを過ごしたドイツと、若い頃から憧れの街だったフランス・パリを対比させる。そして、Chapter2からは、彼女が住んだパリの家の紹介やパリの好きな場所について紹介する。
ドイツ人とフランス人の国民性について言及する箇所があり、実際にヨーロッパに住んでみないと発見できない視点なので、筆者としては興味深い。

30歳を目前にしてベルリン留学をきっかけとして日本を飛び出し、1999年のNHKのテレビドキュメンタリーでフジコ・ヘミングブームが起こるまで、辛く暗く不遇な時代を過ごしたフジコ。その修業時代に、パリで活動した数々の芸術家の物語やモンマルトルへの憧憬が、いかに彼女の心の支えになったのかを知ることができる。

ベルリン留学時代から、たびたびお金を貯めてはモンマルトルを訪ねていたようだが、演奏家として成功し、活動が軌道に乗るようになると、憧れのパリ、憧れのモンマルトルに住むようにもなる。刺激を受けた芸術家たちの足跡をたどり、大好きなユトリロの絵画に登場する街角が実際に存在することに感動する様が愛らしい。

日本にいた頃からフランス映画も好きで、新宿の小さな名画座で映画を観た際に、その映画館があるビルの5階のトイレの窓から外を見ると、屋根が連なっていて、新宿の街並みがパリのようだった、という挿話に、彼女にとってパリは終生、夢とロマン、デラシネの自分を受け入れてくれる唯一の場所だと思いを馳せるよりどころだったのだと、想像できた。

色気のあるカラー写真と、パリの街を男に見立てたフジコの言葉。彼女がいろいろな所で買い集めたアンティークグッズや、愛猫、猫好きの彼女のイメージには珍しく、愛犬・ダギーも登場し、他の書籍やインタビューではあまり聞くことができない情報を知ることができる。大きめの文字も読みやすく、巻末には観光をスムーズに行うための豆知識とお勧めホテルの情報も載っていて、優しい。

書籍「パリ音楽散歩」フジコ・ヘミング

暗く辛かったドイツ時代とは対照的に、パリで過ごす時のフジコの心はとても満ち足りているのだろう。パリを語ると、いつの時でも、嬉しそうで、楽しそうだ。大好きな犬や猫と生活し、街を散策するだけでも、強い喜びを感じているだろうことを、聞き書きの本文は伝えている。
第1章は、パリでの生活、ドイツ・ウィーン・スウェーデンで過ごした不遇な時代のエピソード、パリを拠点に活動するようになってからヨーロッパの各地で演奏活動ができるようになったこと、母・投網子の厳しいピアノの稽古、夢見がちな少女時代、学生の頃の思い出などを語る。
第2章では、2001年にモンマルトルの丘で部屋を見つけてからの、パリでの住居の変遷(モンマルトル→サン・ルイ島→マレ)を語る。街を歩き回り、教会や美術館・博物館、骨董品屋や数々の店をまわって、冒険と発見を繰り返している様がほほえましい。書籍の構成も、カラー写真が多くなり、イラスト風の可愛い地図や、ピックアップされた各エリアのお勧め店舗が紹介されており、ガラリとガイドブックの雰囲気をたたえていて、読んでいるだけでワクワクする。
第3章はパリゆかりの音楽家を、フジコの小旅行と共に解説する。フジコが音楽家たちへの知識や愛、思いを語っているが、おそらく編集者(?)が参考資料を使って加筆しているのだろう。クラシック音楽の門外漢やにわかファンにとって知らない言葉が出てくるので、多少調べながら読まないと理解できないこともあるが、新たな知識が得られるので、苦手意識を持たずにご一読いただきたい。
フジコの半生についてのインタビュー、旅行者への楽しいガイドブック、パリにまつわる音楽家を紹介した伝記的な記事、と本書の構成はとてもバラエティに富んでいる。
『おわりに』にて、数多くの芸術家たちが目にした景色を見、教会の鐘の音に耳を傾け、生活に溶け込んだ音楽を楽しむパリ市民に思いを馳せるフジコの言葉に、読者は深い感慨にふけるだろう…。

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映画「ファースター 怒りの銃弾」(2010)

スタッフ

監督、ジョージ·ティルマン·Jr。音楽、クリント·マンセル。脚本、トニーとジョーのゲイトン兄弟で、兄のトニーはプロデュースにも参加している。

音楽を担当したクリント·マンセルは、ポップ・ウィル・イート・イットセルフというバンドの元ボーカリスト。YouTubeで聴いてみたところ、メタルやシューゲイザー、DJやシンセサイザーを使ったエレクトロニックなサウンドがごちゃまぜになったミクスチャーバンドのようだ。バンド脱退後は映画音楽に専念しているとのこと。本作のサウンドトラックは、バンド時代の音楽性を醸しだしつつも、作品の内容に寄り添ったミステリアスな雰囲気を漂わせている。

見どころ

冒頭の約10分が秀逸。主人公がどういう人物なのかがそれとなく説明されるのだが、何気ないシーンでありながらも『復讐』というテーマをうまく表現している。

刑務所の自室の壁に貼られている、主人公と仲良さそうに肩を組む男の写真。観客に、親友か兄弟だろうか?と思わせる。その写真を、決意を新たにしたような、『復讐』心に燃えるような目つきで眺める主人公。部屋の鍵が開けられ、刑務官に付き添われながら所長室まで歩く間、部屋に閉じ込められた他の受刑者が主人公に向かって悪態をつきながら、怒りに満ちた表情で叫んでいる(後の所長のセリフで判明するのだが、主人公に売った喧嘩を買われ、彼らは手ひどい仕返しを受けている)。彼らの態度も、作品のテーマである『復讐』を暗示させている。所長室にて、所長との会話をしていても、主人公は出所までの時間ばかりを気にしていて、さっさと刑務所を出たくてうずうずしている。刑務所を出るときの金網の開け方も、引きちぎって投げ捨てるような動作である(この場面も『復讐』心で煮えたぎった感情を表している)。

外に出て、辺りを見渡す。刑務所の外は砂漠地帯で、熱くてヒリヒリするような心情を代弁する。ここでマカロニ・ウェスタンで聴くようなエレキギターの音と共に、1970年前後のハードロックのようなBGMが流れ、観客は物語がどのように展開されるかまだ知らないけれども、暗示に満ちた巧みな冒頭シーンのおかげで、なんとなく主人公と同じ気持ちになっていて、居ても立っても居られない気分になる…。具体的なエピソードは一つも話していないのに、暗示シーンや主人公の動作によって、いつの間にか観客は主人公の味方になっているのだ…。

見どころ②

自動車は、本作の重要な構成要素の1つだ。

刑務所を出ると、主人公(以後、ドライバー)は、おもむろに走り始め、近くの廃車置き場にたどり着く。そこで、主役とワンセットになって活躍する車が登場する。黒の70’s シボレー シェベルSS(車体の真ん中に太い白線が2本描かれている)だ。存在感と意志の強そうな車体は、ドライバー自身を表しているようだし、車体にペイントされた2本の白線は、ドライバーと兄の絆を思わせる。

上記の車とは別に、回想シーンで、銀行強盗時にドライバーが使用していたのが、オレンジのポンティアック GTO 1967。劇中歌に1970年前後のハードロックが多用されているのはなぜだろうと思いながら鑑賞していたのだが、なるほど、小道具として使用された往年のマッスルカーとの調和を考えて、選曲されたのだろうと想像する。

見どころ③

ドライバーを含めたその他のメインキャラクターの造形も巧みだ。

離婚して一人息子の親権争い中のドラッグ依存症刑事、役名コップ。

親権争いをさせることで、人物の家庭的な雰囲気、小市民感が演出できるし、物語の本筋とはまったく関係ないのだが、コップの小さな日常の争いをかいま見せることで、観客は潜在的に、円満に解決してほしいと思うようになる(人類は昔から、争いが起これば、敵を倒すか対立している者同士をなだめすかして解決するしか選択肢がないわけだが、コップと小競り合いしている妻を殺すわけにはいかない。ならば、なんとかしてなだめすかすしか方法はない)。その観客の感情がラストシーンでの伏線回収に生きてくる。加えて、ドラッグ依存症という設定にすることで、警察官と犯罪者の線引が曖昧になり、犯罪者を罰する立場の警察官が実は犯人グループの一味だった、というようなどんでん返しに持っていけるようになる。

何者かにドライバーを殺すよう依頼された、殺し屋、役名キラーも可愛い。

キラーは一見、冷徹で非の打ち所がない人物のように見える。美人のブロンド彼女もいて(彼女も殺し屋)、眺めのいい豪邸に住んでいる。部屋の壁には大量の武器が隠された収納庫がしかけられている。まるで、ブラッド・ピットとアンジェリーナ・ジョリーがダブル主演した映画「Mr&Mrsスミス」や、007シリーズの世界観だ。しかしのちに判明することだが、キラーは幼少時、先天的に足が悪くてギプスをはめて生活していた。足の付け根から足先まで大きな傷跡が残っていて、大手術と辛いリハビリを乗り越えてきただろうことが察せられる。家に飾ってある写真からは、武道の鍛錬を積んだり、標高の高い雪山登山に挑戦した様子も伺える。最近もヨガの難しいポーズをクリアしたと嬉しそうに彼女に伝えていて、本当に努力家で健気な男なんだ!…

その他、脇役に付随する脇役たちも、殺される直前に人間味溢れる言い訳をのべたり、家庭を持って更生しようとしている様が描かれていたりして、それぞれに卑小な小悪党感がよく出ていて、ドライバーの憎しみ(観客の憎しみ)の対象なんだからさっさと殺されて然るべきなのに、どこか同情したくなる、というか、共感すべき存在に仕立てられている。

あとがきのようなもの

そういえば、キラーの携帯電話の着メロが、マカロニ・ウェスタンの傑作「続·夕陽のガンマン 地獄の決斗」のテーマ曲なのだけど、英題が「The Good, the Bad and the Ugly」、つまり「良い奴、悪い奴と卑劣な奴」で、ここにも本作の主要キャラクター3人を暗示させるような伏線が張られている。もちろん、ドライバーが良い奴で、キラーが悪い奴、コップが卑劣な奴だ。

まとめ

特に目立つ映画ではないのだが、脚本がよくできていて、どんな人でも楽しめる作品になっていると思う。ハリウッド映画の定石を忠実に守っている、というか。

展開の仕方や各パートの時間配分、目安となるシーン数はまさにブレイク·スナイダー著「SAVE THE CAT」で示されたお手本通り。感情移入しやすいキャラクター造形、小道具の使い方や音楽も良いバランスで調和している。

無惨な殺され方をした愛する兄貴の無念をはらすため、憎き敵グループのメンバーを1人ひとり虱潰しにぶっ殺していく、人間の動物的本能を強くゆさぶる、原始人にもわかる傑作物語だ。

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映画「サイダーのように言葉が湧き上がる」(2021)

アニメ音楽レーベル『フライングドッグ』設立10周年記念作品。監督・イシグロキョウヘイ、脚本・イシグロキョウヘイ&佐藤大、音楽・牛尾憲輔、主題歌・never young beach、主要キャラクターの声優に市川染五郎、杉咲花、花江夏樹、山寺宏一などがいる。

普段からアニメ作品をよく観るわけではないからか、今作の製作に関わった会社やスタッフについての知識、情報は皆無である。

メインキャラクターは、コミュ障の少年・チェリーと特徴的な前歯をマスクで隠す少女・スマイル。

二人のバイト先のデイサービスを利用する老人・フジヤマは、彼の若き日の妻が出したレコード(妻はシンガーソングライター?)を探し続けている。

チェリーとスマイルは、そのレコードを共に見つけ出す行為を通じて、友情と恋心を深めながら、お互いのコンプレックスを克服していく、青春物語。

星五つを最大評価とするならば、冒頭は星一つから始まり、ラストは星五つ、が筆者の感想だ。
尻つぼみならぬ頭つぼみ…。
終わり良ければすべて良しじゃないか、との声も聞こえるが、冒頭(いわゆる、つかみ)のシーンが個人的に気に食わなかった(むしろ最悪)だけに、冒頭シーン含めて、もっと丁寧に物語の各パートをつないでいたなら、作品の印象は大きく変わっただろう。
製作中に作品全体の雰囲気が定まっていなかったのかもしれない。
後半が徐々にしっとりとしてきていい雰囲気に盛り上がっていくだけに、特に前半のコミカル(下品)部分が鼻につく。

大きく挙げて二点。

例えば、チェリーとスマイルが劇的に出会うシーンにトリックスター(狂言回し)としてビーバーというキャラクターが登場するが、彼は単なる犯罪者だ。
ショッピングモール内の商品を盗難し、スケートボードで激しく迷走·爆走しながら館内の客を危険にさらし、言葉を覚えるためと称してタギング(落書き)を繰り返す。
作品を観た、特に若い観客は、ビーバーの行為を、作品の冒頭を清新なものにするためのカンフル剤だとして、割り切って眺められるのだろうか?


耳が遠いからといって、白目を剥いて突然絶叫するフジヤマも理解しがたい。作中の後半、フジヤマはおとなしい滋味深いキャラクターとして描かれるのに、なぜ冒頭シーンだけ、突然狂気を発症する謎設定が繰り返されるのか。

性欲が減退した老人が(それに年をとったら童貞かどうかなんてどうでもよくならないか?)、あだ名のチェリー(そもそも仕事場の名札にチェリーなんてあだ名書いとくなよ)に関連付けて「おぉ!チェリーボーイっ!」と童貞をおちょくるセリフを放つことも疑問だ。キャラクターに名前をつけるとき、チェリーボーイ→チェリー→「佐倉を本名にしよう!」の連想ゲームに、そしてこのセリフをじいさんに言わせようとする脚本家に、一番の童貞くささを感じる。
観客の心をつかむための冒頭シーンで(爽やかそうなタイトルと映像美の中で)これらの行為を見るにつけ、筆者の心の扉は、ギギギ…と閉まりかかるのである。

タイトルほど、チェリーがSNSで配信する俳句に、湧き上がる思いや動感を感じないのもひっかかる。口下手ではあっても、もっと活発で動きのある少年を演出することで爽やかさが増したり、俳句にプロの監修をつけることで、より観客にチェリーの俳句を通して気持ちが伝わったのでは、とも思う。

愚痴ったらしくなったが、現代を象徴するショッピングモールやSNSをメインモチーフにしながら、古臭い、レトロと呼ばれるようになった俳句と、シティポップのアルバムジャケットのようなカラフルでビビッドな映像との取り合わせは、斬新で面白い。
古さを題材としながらも、もはや一周まわって令和の時代に完全にマッチした新しさも感じさせた。
その意味では、近年のシティポップブームで再評価された(?)大貫妙子が歌う劇中歌「YAMAZAKURA」も、数十年前の歌にも聞こえれば、現在の新人アーティストがリリースした曲だといっても違和感ない現代性を感じさせて、時代感覚を麻痺させる、絶妙なバランスが混ざり合っている曲調で印象深かった。

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映画「Shall We Dance?」(2004)

1996年、日本で公開された周防正行監督作品『shall we ダンス?』のアメリカリメイク版。

監督はピーター・チェルソム、脚本はオードリー・ウェルズ、主演はリチャード・ギア、草刈民代が演じた若き憧れの先生役は、ジェニファー・ロペスが務める。

筆者にとって日本版は(90年代に生まれ育ったものにとって)作品にうつるファッションや街の雰囲気、映像の質感に、-80年代後半の好景気バブルの余韻をひきずりながらも、バブルがはじけてからすっかり自信をなくし、どう生きていけばいいのか当時の日本人の理想生活モデルを見失った、95年以降のくたびれた空気感-を多分に感じ取れて非常に懐かしく楽しめる作品である。
ストーリー展開や構図の組み立て方、セリフやキャラクター造形、俳優の独特の間合い、すべてが絶妙で面白い。

主人公を始めとした主要キャラクターたちは、大きく道を外れることはしない真面目な小市民。日常生活にそこはかとない不満をかかえ、それを発散する場を探している。その彼らが、ひょんなことから見つけた社交ダンスに生きがいを感じ、徐々に技術が向上していくごとに、灰色だった日常がカラフルに輝いていき、コンプレックスも吹っ飛ばし、まるで別人のように見違えて、ダンス大会で隠されていた能力を発揮していく。

その「カタルシス」の過程が、日本版の作品の妙味であり見どころになるわけだが、意図的に、稼ぎが多くはないだろう、ちびやデブやハゲ、おばさんを登場させることで作品の妙味は強調される。普段は良い思いをすることがなさそうな彼らを、社交ダンスを通して未知なる世界へ前進させるからこそ、応援したくなるし、共感できる。

日本版の『shall we ダンス?』は、作中の登場人物が当時の自信を失った日本人たちを代表して、理想や希望を与え、叶えてくれる作品だったのだ。

一方、アメリカ版は、というと、12時間ダイナーで働き、その後も家政婦の仕事をやって生計とダンスレッスンの費用をまかなっているボビー以外のキャラクターは、どこか切迫感がなく、ダンス教室なんか通いに来なくたって、それなりに楽しく明るく生きていけそうな奴らばっかりだ。

主人公のジョンは弁護士、家も、所沢の先にある駅から遠く離れた狭小住宅などではなくて、大きな敷地に緑が生い茂り、小鳥がさえずり、明るい陽のあたる‐屋敷-とでも呼べそうなところに住んでいるし、ダンス教室の面々だって、ヴァーンには可愛い彼女がいれば、チックだって見た目も悪くないし私生活で恋愛には不自由していなさそうだ。

アメリカ版のどこをみても「カタルシス」が成立する要素が存在しないのである。キャラクターに悲哀がなく「カタルシス」がなければ、どんなにダンスが上達しようと大会で成績を残そうと、感動は生まれない。

また、設定やプロットに多少の変更はあるものの、ほぼ忠実に日本版をそっくりそのまま再現していることも、評価の分かれ目になりそうだ。なんのために日本版になぞらえたのか?大きくアレンジをほどこしたほうが、リメイクとして作品の質が上がったのではないか?

周防正行監督によると、アメリカ版の撮影では、日本版の映像をモニターで流し、俳優たちがそれを見て確認しながら細かい演技の流れのお手本とした、と語っているが(wikipedia内の『Shall We ダンス?』脚注を参照)、それがアメリカ版の作品に良い影響を与えたのだろうか。
もう少し、羽目をはずしてでも、アメリカ独自の『Shall We Dance?』が観てみたかった。

リチャード・ギアお得意の、優雅でスマートなシーンを多用し(黒のスーツを着て妻のために一本の赤いバラを持ってエスカレーターを昇ってくる作中のシーンのような)、アメリカらしい大味なコメディに振り切っても、充分に楽しめたのではないか。

そしてもうひとつ、最後に文句を挙げるなら、ジェニファー・ロペスはたくましくて野性味のある人相、たたずまいが持ち味なので、憂いを帯びた様子など表現できないだろうから(失礼)、ダンス教室の窓辺に立たせないでほしかった。

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映画「She said その名を暴け」

本作を認知したのは初め、2023年1月27日の朝日新聞、クロスレビュー欄の記事である。

米映画プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタイン氏の性加害に関する映画で、ニューヨークタイムズに掲載された彼への告発記事は、『#(ハッシュタグ)Me too』をつけてSNSに性被害に関する体験談を投稿する#Me too運動を引き起こすきっかけになったらしいと知る。

今となっては単なる無知としか言いようがないが、筆者は#Me too運動に正直、関心がなかった。ワインスタインという名前を聞いても、「あぁ、たしか後ろ手にされて手錠をかけられている映像をニュースで見たな…」ぐらいの感覚で、深くその事件の本質を知ろうとはしなかった。記事の中で識者は、フェミニズム映画とも捉えられる、と説明していたが、フェミニズムという言葉も言葉の音としてだけしか知らなかった。その時はとりあえず素通りした。

続けて、3月7日の朝日新聞、「上野千鶴子ブーム 中国女性の今」という記事を文化欄で読み、先述の映画の記事を思い出す。フェミニズムについての知識が、ワインスタインの性加害事件や世間の女性のおかれた立場を理解することに、まず必要なのではないか。上野千鶴子氏が筆者のフェミニズムへの入り口となり、彼女の著作を読み始めた。

これまで、女性の視点から社会を見つめようとする意識が完全に欠けており、自身に危害が加えられなかった男性社会の男の目線でしか、社会やものを見ていなかった、と自戒した。

フェミニズムの予備知識を多少なりとも頭に入れた後、千葉県柏市のキネ旬シアターで本作を鑑賞後、原作である書籍『その名を暴け #Me tooに火をつけたジャーナリストたちの闘い』も読む。

映画が2022年に公開されたというのは、時期としてあまりタイムリーではなく、話題性にも乏しかったかもしれない。事実、評論家からの評価はそこそこ高かったものの、評判にならず、アカデミー賞の候補作にもならなかった。ハリウッドの超有名プロデューサーが作品の題材になっているのに。

#Me too運動が盛んだったのは2017年、2018年頃だったし、ワインスタイン氏は、2020年3月、ニューヨーク最高裁判所で禁錮23年の判決を既に受けてもいる。終わった話題だったのか?

しかしながら、#Me tooやワインスタイン事件というのは、性犯罪者が逮捕されたから一件落着、という話ではなく、この件をきっかけに、女性に対する社会的な仕組みや既得権益層の考え方が変わらなければ永遠に意味がない問題だ(男性が女性や弱者が憤慨している要素を理解し現状を変革する)。そして、どの時代のどの事件でも、ワンテンポ遅れて事の重大さを認識したり興味をもったりする人々も存在するはずだから(筆者がその1人)、この映画が製作されたことは十分に有益だろう。

本作を鑑賞したり原作を読むことは、そしてフェミニズムの考え方を知ることは、女性や弱者が暮らしやすい社会を考えていく上での一助になると思う。

ワインスタイン氏から性被害を受けた女優、ローズ・マッゴーワン氏の言葉を引き合いに出すと、ワインスタインだけでなく、ハリウッドの映画業界自体が、

・名声をえさに女性をおびきよせ
・高額の利益を生み出す商品に変え、体を所有物のように扱い、それから放り出し
・加害者は監視されていないので恐れておらず
・どのスタジオも、侮辱しては金を払って済まし
・大半が秘密保持契約書を結ばされ
・女の方がバッシングされ
・逃げようものなら、代わりの女優志望者はたくさんいる

のだという。

この言葉を突き詰めて考えていくと、映画産業に限らず、どの産業にも構造的な共通点が見いだせるのではなかろうか?と考える。少なくとも、女性にはピンとくるはずだ。

雇用を餌に若い女性をおびきよせ、男社会・オヤジ社会に放り込まれる。職場では女性従業員のほうが数が少なく、すぐに性的な視線や言動で弄ばれる。被害を受けて不快な思いをしても、どこに相談すればいいかわからない。職場の配置換えをしてもらっても、またしてもそこはオヤジ集団。親身になって相談にのってくれていた上司の薄皮一枚下は、またたく間に豹変するセクハラ野郎かもしれない。会社にセクハラ委員会があったって、男ばかりなのだから、本気で女性の待遇改善にのりだすかはいささか疑問だ。世の中の風潮にあわせてセクハラにならないような言動を暗記してきたオヤジたちだって、本当は何が問題なのか分かっていないこともある。

結局、職場を金のかからないキャバクラ・風俗としてしか見ていないオヤジたちから、女性の側が逃れざるを得ない。誰かが辞めたって、毎年若い女性は入社してくるのだ。

そもそも、職場や社会で権力を持つ者の多くが女性であれば、もしそれが極端だとしても、権力を持たざるとも組織における女性の割合が多ければ、男性から女性への性加害事件に蓋がされることはないはずだ。権力者や会社などの組織が男性中心だからこそ、性加害事件が起きても矮小化するような判断を下したり、見て見ぬふりをしたり、同じ男として共感しうる事柄として隠蔽を是とし、男たちは自らの保身にはしる。

男性優位社会は、会社の重役や性犯罪者でなくとも、男だというだけで、男の側に権力がある。女側が要望を通そうとすれば、男の権力におもねらなければならない構造がある。

男性側が女性に対する性をめぐる理解を深めると共に、社会や組織の構造も変わっていかなければならない。目の前に存在するのはAVやエロ本から抜け出てきたキャラクターではなく、感情のある1人の人間だという当たり前のことを最低限気に留めておくだけでも必要だろう。

筆者もまだまだ勉強不足なところがあり、このブログも具体性や説得性にかける文面になっていることは自覚しているが、また追ってジェンダーに関する理解が深まれば、記事として綴っていきたいと思っている。

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