1月15日〜30日

読書

『らせん』鈴木光司

昨年末、角川映画の公式YouTubeチャンネルで期間限定公開された、1990年代に一世風靡した映画『リング』を初めて観た。現代ジャパニーズホラーの火付け役とされる作品であるが、原作、映画ともにホラーというより、風変わりなミステリーだな、との印象が強かった。ジャンルはなんであれ面白かったので、続編となる『らせん』にも手を伸ばす。

そして『らせん』も同様に、ホラーではなくミステリーなのだ。『リング』がバブル期や90年代初頭の、牧歌的でありながらも暗い、スピリチュアルなものに関心があった時代背景を色濃く反映したオカルトミステリーだとすると、『らせん』は荒唐無稽なSFミステリーである。ビデオテープだけでなく、あらゆるメディアにリングウィルスが忍び込み、爆発的な感染を引き起こすと同時に、世の中の人間をくまなく貞子と高山に置き換えていこうとする。アメリカの5、60年代のSFじみた皮肉とユーモアを交えたラストやその発想がどこか可笑しい。

映画版『リング』は、貞子が井戸の中から這い上がり眼の前のテレビ画面からにゅっと出てくるシーンが話題になったり、いかにも90年代な曲調の主題歌がマッチし(繰り返し放送されるコマーシャルやお笑いタレントの話やモノマネによる効果もあって)ヒットに至ったが、映画版『らせん』はそういった売りどころがないばかりか、原作と比べて省略されている部分が多く(謎解きの過程など)、原作や前作の映画版『リング』を観ていなければ、よくわからない人もいるのではないか、というところばかりで、残念ながら完結した娯楽作品とは言えないのが難点だ。

小説は『リング』『らせん』共に読んでおいて損はないだろう。

『仄暗い水の底から』鈴木光司

東京湾、東京湾沿いの街を舞台にした七篇からなる短編集。『浮遊する水』『孤島』『穴ぐら』『夢の島クルーズ』『漂流船』『ウォーターカラー』『海に沈む森』のうち、『浮遊する水』が2002年に映画化。映画化する際、『浮遊する水』は短編集のタイトルと同様に、『仄暗い水の底から』の題名で1時間40分の長編映画として公開される。

短編集のうち、筆者が興味深く読んだのは、第六台場で産み落とされた人間の子供が野生のままサバイブする『孤島』と、昔の海外の怪奇小説のような味わいの、目玉のような模様の貝が次々と乗員を怪死させていく『漂流船』だ。

映像化によって原作の持ち味が破壊されることはままあるものの、『仄暗い水の底から』の映画版はどうだったか、果たしてアレンジが吉と出たのか凶と出たのか、というと…。個人的な感想から述べると、映画版のアレンジは改悪に値する。

原作のような理路整然さがなくなり、話があっちに行ったりこっちに行ったり。幼稚園のシーンや親権争いのシーンは必要あったのか?

原作者は「ホラーには水がつきもの。必ずゾッとするような場面には湿り気がある」というような話をよくするが、映画版では終始、大量の水が流れっぱなし、湿り気どころじゃない、その水の多さは許容量を超えたもはや白けモードレベルで、「物事には限度があるだろ!やりすぎは下品だろ!」とツッコミたくなる。ホラーというより、もはやコメディだ。

そして、自分の子供を差し置いて、幽霊の子供と昇天した母親は一番の胸クソポイント。母親が主張した不思議現象(捨てたはずの子供用のショルダーバッグが元の場所に戻されていたり上の階の部屋で怪現象があることなど)も管理人・不動産会社・弁護士も現実に起こったこととして確認しているのに(つまり母親は精神異常ではないのに)、冒頭の親権争いのシーンにて、すべて母親が体験した心霊現象は精神異常によるものかもしれませんよ?というようなフリを入れることも意味不明で気に食わない。有吉弘行氏のラジオ番組『SUNDAY NIGHT DREAMER』にて、怪談師で元芸人の島田秀平氏がゲストに来た際、有吉氏が「霊が見えるなんて言ってる人は、病院でカウンセリング受けたほうがいいんじゃないの?伝々」と心霊現象をおちょくる発言をしていたが、本作のようにホラー、怪談話をするのに、母親が精神異常だから、なんていう設定を1mmでも差し込んだら、すべてがぶち壊しなのである。

09:24~

作品全体に一貫した論理が通ってないし、ラストシーンの、子供の幽霊の体を黒染めし、ボイスチェンジャーで声を異物化して化け物じみた演出で怖がらそうという魂胆も観客をバカにしていて腹が立つ。子供向けのお化け屋敷じゃないんだから…。

短編小説を無理に一本の長編映画にするくらいなら、原作の七篇の短編をそれぞれ違う監督に演出させてオムニバスにすることはできなかったのか?と疑問がわいた。

『小説家の作り方』野崎まど

印象に残らない作品だ。ライトノベルらしいコミカル風なキャラクターのやりとりも、あまり好きではない。

『シブい本』坪内祐三

ネット上で「随筆」「エッセイ」について検索した際に、どこのサイトで発見したのか覚えていないのだが、『エッセイストになるための文庫本100冊』というリストが目についた。そして、このリストの出典元が、坪内祐三著の『シブい本』の中にある。

このリストに挙がったエッセイ本100冊はつまり(海外の著作も含まれているのだが)、日本の随筆の歴史を反映させて組まれてある。平安時代の『枕草子』『徒然草』から始まって、漱石・藤村など文豪系、戦後派、昭和軽薄体などと時代が下っていく。

エッセイストになりたいのなら、古今東西の著作を幅広く系統だてて、このリストくらいの量は読みこなさないといけませんよ、との作者からのアドバイスか。

『硝子戸の中』夏目漱石

上記の『エッセイストになるための文庫本100冊』に挙げられていた作品の一つで、癇癪持ちで屁理屈家の漱石にしては、角の取れた丸みのある文章で、いやに幼少の頃を思い出したり自らの至らぬ点を反省したりするな、と思って読んでいたら、なんと漱石が亡くなる前年に書かれたものらしい。

春のあたたかい日和の中でウトウトと見る柔らかな夢の世界のようでもあり、幕末から明治への時代の流れを知る歴史資料のようでもあり面白い。

ドラマ

『地方紙を買う女』(2007)

原作は松本清張の『地方紙を買う女』。主演、内田有紀。他に高嶋政伸、千原ジュニア、国分佐智子、温水洋一など。原作では事件現場を山梨県の山中に設定していたが、ドラマ版では宮城県へと場所を移す。震災前のこじんまりとして落ち着いたJR女川駅の駅舎やホームの姿を見ることができる。内田有紀の脚が細い。

『黒い画集 紐』(2005)

原作は松本清張の『黒い画集』シリーズから『紐』。主演、内藤剛志。他に余貴美子、石橋蓮司、真野響子など。原作では岡山の田舎町で神職をやっていた男が東京へ出てきてビジネスを起こそうとするが、ドラマ版では佐渡島に設定を移し、より、閉鎖された空間から外の世界へ出ていこうとする心理描写を強調する。ミステリーには自分勝手な犯罪者も多く登場する中で、周囲に迷惑をかけたぶんの借金は、自分の生命保険で償おうとする主人公の男に好感をもつ、と同時に、男が死んでも妻は悲しむことなく愛人と滞りなくくっつくだろう展開の哀調に胸を打つ。

『影の車』(2001)

原作は松本清張の『影の車 潜在光景』から。主演、風間杜夫。他に原田美枝子、浅田美代子など。会社から帰宅途中のバスの中で主人公の男(妻帯者)は、ふと、幼なじみだった女性(現在はシングルマザー)と偶然に再会し、やがて彼女の家に足繁く通うようになるうちに、不倫関係に発展する。男は相手の女性に、妻には感じないあたたかな心づくしを感じて、彼女の家に居心地の良さを求めるが、一方で、彼女の幼い一人息子から、敵意、どころか殺意を感じるようになり、半ばノイローゼのようになった男は、彼女の息子に殺人未遂を犯してしまう…。

松本清張自身も幼少時に父が亡くなってから、母一人子一人で育ってきたようなので、母子家庭の哀感と母に近づく男に対する感情の表現にはリアリティがある。筆者も母子家庭で育ったので、共感できる題材であると同時に、松本清張作品で一番好きな作品かもしれない。原作小説も、主人公の男の、平明で静かな語り口が心に響く。

原作自体が傑作でありながら、ドラマの撮影地が筆者の思春期を過ごした街で撮影されていることも思い入れが深くなる。現在は様変わりしてしまったその街も、ドラマを通して当時の牧歌的な雰囲気を伝えている。

松本清張の映像化作品は、あまりハズレがないようだ。ハズレがないどころか、映像化作品のほうがうまく膨らませてあって見応えがある。起用する俳優も適材適所に配置され、原作のイメージを損なわない。

『競馬場の女』(1994)

原作は『オール讀物』1993年6月号に掲載された、高村薫『馬』。主演は阿藤快、倍賞美津子。刑事である夫はある朝、意味深な表情を浮かべながら仕事に行くふりをして、突然蒸発してしまった。3年間、パートや舅の介護、義姉との関係などに苦心しながら、妻は夫が蒸発した謎を追い続ける。夫の蒸発が、身近な場所で起こったいくつもの殺人事件と関係しているかもしれない可能性やヤクザもんの登場に戸惑いながらも妻は真相を解明していく…

筆者の頭では一回観ただけではなにが面白いのかが理解できなかったので、二回観るはめになったのだが、ギャンブルをやって得をすることなど何もないという教訓を再確認したまでであった。ギャンブルに興味がない筆者にとって、ギャンブルによって破滅していく男と、その男にしがみつく女のさまを眺めているほどバカバカしいことはない。物語のキーになる夫の言動はすべて現実逃避であり、なにも解決しない。なんでもかんでも宙ぶらりんにさせて、家族に失礼だと思わないのか?とムズムズする。

しかし犯罪は案外にどうしようもないところから出発するようでもあるし、そのどうしようもなさを含めてたっぷり描くことが、人間を表現することにもなるのだろうか…。

『闇の脅迫者 江戸川乱歩の「陰獣」より』(2001)

見知らぬ誰かがどこかから自分を覗いてくる気持ちの悪さと、手紙を使って粘着質な犯人が不気味な精神的揺さぶりをかけてくる、江戸川乱歩お得意の怖がらせ方。被害者ぶっていたりまったく物語の上で動かないメインキャラが実は犯人、というミステリーの定石とも言える展開を繰り広げつつも、令和のいま読んでも古びない清新さ。ドラマ版は原作のラストのように言い訳めいたことを語らないところがいい。

根暗な役柄の多い、そしてそのような役がうまい佐野史郎と、社交的で繊細な、影のある役が似合っている川島なお美(懐かしい!)が主演。

2001年の放送当時に即して、手紙という小道具がパソコンのメールに変わっていたり、春泥がネット上に公開する小説をフロッピーディスクに保存しているところが見どころか。

『火の坂道』

『刑事の十字架』

『チロルの挽歌』

『雪国』(2022)

原作は川端康成の『雪国』。先日、わりと好きな高良健吾が出演しているので観た。しかし主演は反対に、顔が好みではない高橋一生と奈緒である。もともとは川端康成没後50周年を記念して放送されたものなので、2022年の作品だ。

もしかしたら筆者が理解できないだけかもしれないが、原作小説は過大評価されすぎているように思う。「文豪が書いた」、「ノーベル文学賞受賞作品」。その肩書に惑わされてはいやしないだろうか?

名作映画と呼ばれているものは何をもって名作としているのか、何をもって有名になったのか、といえば、個人的な考察では、印象的なシーンと良い音楽があるからである。では小説の場合ではどうか?『雪国』に関するなら冒頭の「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった〜」の一文が、映画で言うところの良い音楽に値する。平明でありながら一番最初に出てくる文章としてパンチがあり、読者は途端に雪国の世界に誘われる。作品は国語の教科書の常連でもあり、それが映画を宣伝するテレビコマーシャルの役割を担って、繰り返し々、日本国民を洗脳していったのだ。しかし、それだけだ。コマーシャルでかいつまんだ映像は面白そうでも、駄作映画なんて山ほどあるだろう…。

水掛け論のように並行するばかりのセリフ、関係者のような顔をして首を突っ込みながら傍観する島村、平板なストーリーに無理矢理、波を立たせるべく突然発生するラストの大火事と葉子の事故。

葉子役の女優もしょぼくさかった。地味で印象に残らない。原作にあるような、声が特別きれいな人でもなかった。けれども、ああいうなんでもないような人間が1番、ここぞというときに男の前で、女、を出すのだろうと思う。

島村の部屋で芸事の稽古をする奈緒はよかった。三味線は下手だし、おそらくあそこの三味線の音は吹き替えだろうけども、唄はなかなか上手だったし声もきれいだった。葉子の役を奈緒にやらせたほうが適任だったのではないか。

映画

『コールドクリーク』(2003)

『おいしい給食 卒業』(2022)

『レギオン』(2010)

『シングストリート 未来へのうた』(2016)

『トランスポーター1、トランスポーター2』

『推しが武道館いってくれたら死ぬ』(2023)

『夏美のホタル』(2016)

舞台

『キネマの天地』

『酒と泪とジキルとハイド』

『小野寺の弟 小野寺の姉』

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