映画「ミスターソウルマン」(1986)

マーク(ハウエル)はそこそこの経済的に恵まれた家の子であったが、ハーバード大学法学部に合格した。しかし喜びもつかの間、なんと父親が学費に充てるはずのお金を全て使い果たしてしまい、進学のための費用がなくなってしまう。

困ったマークだったが、黒人学生のみに適用される奨学金制度を知り、思いつきで何とサンレスタンニングを使用して黒人に成りすますという荒技に出る。その後、マークは人種問題や自分の奨学金のせいで奨学金が貰えないサラ(レイ・ドーン・チョン)の存在を知る。

(上記、wikipediaから引用)

白人である主人公が黒人になりすますという内容のため、公開当時はアフリカ系アメリカ人の間で物議を醸し、『ニューズウィーク』誌では不快な内容の駄作として叩かれた。しかし、これらの抗議や批判があったにもかかわらず、この映画は興行面では成功した…。

とのことで、映画自体の評価はあまり高くないようだが、私はそこまで酷評するような内容の作品だとは思えなかった。

日本人なので、アメリカの人種問題について感覚的にピンと来ていない面もあるだろうが、白人であるマークが黒人になりすますことで、黒人当事者としてアメリカ社会を今までと異なった視点で改めて見渡すことができ、その経験がクラスメイトのサラとの、異人種間の恋愛に発展したことは、アメリカ社会の人種間の融和という面で、とても示唆に富んだ感動的な物語である。ただ白人が、黒人の特徴(いわゆる、黒人あるある)をあげつらって揶揄している作品ではないのだ。

アメリカの歴史の中では、白人が体を黒く塗って黒人を揶揄する、いわゆるミンストレルショウが存在した時期があるので、この映画によって黒人たちに、悪しき記憶を呼び覚ましてしまうということが低評価の理由なのかもしれない(映画ではなく小説で表現されていたら抵抗なく受け入れられそうな物語である。体を黒くしたマークの姿は黒人というより南アジア人のよう)。

が、むしろその大胆な設定によって、黒人に対する白人の嫌悪感・異人種間の深い溝を乗り越えて、マークとサラの仲が恋愛に発展していくヒューマンドラマそのものにスポットライトが当たっているからこそ、厳しい評価を下されながらも、映画館へと足を運んだ人も多かったのかもしれない、と考えられる。

不況の波にあおられて、白人至上主義者やネオナチの過激派グループの活動が活発化し暴力事件が多発した1980年代に、せめて映画の世界では異人種間の融和を見たいという多くの観客側の潜在的な欲求も手伝っていた可能性もある…。

アメリカには本作のモチーフとなった、黒人その他マイノリティの若者に奨学金を出して進学させる制度が存在する。アファーマティブアクション(積極措置)といって、マイノリティや女性の進学、卒業後の就職、昇格、ビジネス契約などに、主に人口比率で特別枠を提供する措置で、1960年代に始まった公民権運動の最大の成果だった。このおかげでマイノリティや女性は一挙に「社会主流化」し、黒人だけでも1000万人前後の新中流層が誕生した。

ただ、この制度によって、いわゆる逆差別が発生しているとする白人側の反発も存在し、本作公開時の1980年代や、2026年現在のように世の中が不況になると、人種問題が再燃し、論争の火種となることがある。心に余裕をなくした白人が攻撃の対象を求めるのだ。

日本にも昨今、外国人が日本人の雇用を奪い、国内の治安を悪化させているとする『外国人問題』なるものが話題に上ることがあるが、アメリカにはこの『外国人問題』が白人にとって常に存在するようだ(白人がネイティブアメリカンの土地に勝手に入植し、白人自ら黒人を奴隷としてアメリカ大陸に連れてきておいて、言える立場ではないはずだが)…。

それにしても、本作の公開からさらに時代を下って2026年現在、北米における白人の割合は6割を下回り、白人の貧困層も増え、白人は特権階級だと主張することも難しくなりつつある。むしろ白人がマイノリティとなって、上記のアファーマティブアクションの恩恵を受ける立場になることも考えられる(AIの台頭によって大学卒業がどれほどの意味を持つのか、この先不透明だが)。

アメリカの歴史は今また激動の時代を迎えている。新たな対立と融和を乗り越えて、これからアメリカ社会がどう変化していくのか、映画と共に動向を注視していこう。

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映画「シェフとギャルソン、リストランテの夜」(1996)

1950年代、アメリカ東部ニュージャージーの田舎町。イタリアからの移民である弟のセコンド(スタンリー・トゥッチ)と兄のプリモ(トニー・シャルーブ)は、イタリア料理のレストランを営んでいる。セコンドは店の経営とギャルソンを担当し、プリモはシェフとして料理を作り、甥のクリスチアーノ(マーク・アンソニー)も一緒に働いている。

才能あるシェフであるプリモは祖国イタリアの本格的な味にこだわっているが、アメリカ人とは感性が合わず、客はほとんど入ってこない。いよいよ経営が行き詰まり、セコンドは銀行に借金返済の猶予を頼み込むが、にべもなく断られてしまう。恋人のフィリスはセコンドとの結婚を望んでいるが、他にも愛人がいるセコンドは、店の経営難を理由に煮え切らない態度をとっている。

一方、通りの向かいでは、アメリカ人向けのイタリア料理を出すパスカルのレストランが、毎夜にぎわっている。自分の料理の純粋さに誇りを持つプリモは、パスカルの店が出す料理を許すことができない。パスカルはセコンドに、プリモと一緒に自分の店で働くよう誘うが、セコンドは兄の信念を理由にそれを断っている。

銀行による店の差し押さえが迫るなか、セコンドは兄に内緒でパスカルに借金を頼むが、パスカルは金を貸すことはできないと断る。しかし、かわりに知り合いの有名なジャズ・シンガーであるルイ・プリマに、セコンドとプリモの店を訪れるよう頼んでくれるという。セコンドは、兄にはパスカルの助力であることを隠しながら、店と自分たちの人生のため、ルイ・プリマを主賓とするパーティの準備にとりかかる。

(上記、wikipediaより引用)

1996年公開とは思えないほど、クラシカルな映像と演出が光る作品である。中途半端な妥協や見せかけの面白さでは決してごまかさない、職人気質のプリモの料理のようだ。さて、作中のプリモのような頑固とも言える態度は、ひと財産稼ごうとアメリカにやってきた移民として適切なものなのだろうか?

才能も実力も兼ね備え、自信もあるからこそ、アメリカに来ても母国の本場の味をアメリカ人にも味わってもらいたい、アメリカで本場の味を浸透させたいと願っているプリモだが、味覚や好みというのはその国の文化や歴史にも密接に関係があるわけで、信念があれば認められるものではない。

外国料理というのは、どの国でも最初から本場の味が受け入れられるものではない。日本においても、まず西洋料理としてナポリタンが誕生し、インド料理がカレーライスになり、中華料理がジャパナイズドして町中華になり、その国の人々の口に合うように改変された上で、ようやく受け入れる側の思考や好みが変化して、本場のパスタやリゾット、本格的なインド料理、中国人による四川料理が認知され、好意的に受け入れられるようになるのである。

プリモやセコンドが生きているアメリカは、ましてや1950年代であり、当時の先住アメリカ人には、まだまだ保守的な思想や感覚があったはずだ。日本人にとってみれば同じ白人でも、イタリア系はアメリカ社会に遅く参入してきた民族であり、イタリア料理が認知されていないだけでなく、人種差別もあっただろう。2018年公開の映画「グリーンブック」で、1960年代になっても、用心棒として雇われたトニーが『イタ公』と侮蔑される様子が描かれるように、保守的な時代は長く続いた。

プリモやセコンドも、アメリカの保守的な雰囲気は意識せずにはいられなかったと思う。だからこそ、セコンドの身のこなしや、パスカルの経営姿勢はアメリカナイズドされているのだ。プリモの信念も尊敬に値するが、二年も店を経営して何一つ工夫することなく廃業に追い込まれることを思うと、自業自得にも見える。作中では、経済ヤクザのようなパスカルがプリモの店に意地悪をして廃業に追い込んだように表現されているが、パスカルがルーツのイタリア風を表現しつつも、自分の店をアメリカ人好みの経営業態した経営手腕は、多国籍国家では当然の帰結だろう。日系アメリカ人が海苔巻きをそのまま出して、海苔が髪の毛のようだと嫌われるために、カリフォルニアロールを開発したように、まずはアメリカ人好みに改良してからでなくては、本場の海苔巻きや寿司だって受け入れてもらえない。

移民としてアメリカに渡ってきたということは、母国より良い生活環境を手に入れるためだろうし、まずは信念よりもビジネスを優先しなければならないはずだ。わがままを言いたいなら母国にいればいい。

おそらく、プリモは母国の親戚の店を手伝うために帰国することになるだろうし、セコンドや従業員のクリスチアーノはパスカルの店に雇われて働くことになるかもしれない。そしてセコンドの恋人のフィリスは南部に移動してカウボーイとくっつくかもしれないが、とにかく、移民というのは、自己のアイデンティティーや文化を、受け入れ国やその国の人々に一方的に押し付けるのではなくて、移民先の国の文化に合わせ自らを統合しつつ、しかし妥協的に自らのルーツを小出しに表現していくことなのかもしれない。

映画「グリーンカード」(1990)

ニューヨークで一組のカップルが結婚式を挙げた。だが2人は今日が初対面だった。園芸家のブロンティは安くて温室のあるアパートに住みたかったが、そのアパートは単身者では入居できなかった。一方、フランスからやってきたアーティストのジョージは、長期滞在の外国人永住権(グリーン・カード)を得るためにアメリカ人の妻が必要だった。

お互いの利害が一致した2人は書類だけの結婚(偽装結婚)をし、望みのものを手に入れた。ところがある日、入国管理局の調査員が偽装結婚でないかをチェックするために家を訪れるという。根掘り葉掘り質問する調査員を何とか誤魔化したものの、ひと月後の本格的な調査の面接に備える必要があった。お互いの趣味や生い立ちを暗記し、屋上でバカンスのニセ写真を撮ったりするうちに2人は惹かれ合っていった。

入国管理局の2人への面接は打ち合わせ通り進んでいたが、ジョージがある質問で間違ってしまい、とっさに暗記できなかったことを呟いてしまう。しかたなく偽造結婚を打ち明けるが、ブロンティに罪はないと伝える。

偽装結婚が発覚してアメリカから強制退去させられるジョージに、ブロンティは愛の告白をするのであった。

(上記、wikipediaからあらすじを引用。一部修正)

お互いの思惑があり、偽装結婚をしてまで望みのアパートメントに住みたい、とする設定は理解できるのだが、ブロンティが偽装結婚をしてまで「植物」に固執する理由はなぜか、が理解できなかった(もちろん、映画タイトルのグリーンカードと温室を意味するグリーンハウスのかけ言葉を狙った面もあるだろう)。

自然豊かな土地で生まれ育って、仕事のために都会に出てきたのだったら、コンクリートばかりの都会に緑を恋しく思う気持ちはわかる。仕事のために、おいそれと田舎に引っ越すこともできず、日々の癒しのために小さな植物園を作るための温室付きアパートに絶対に住みたいのだったら・・・。

しかし、ブロンティも親姉妹ももともとがニューヨークの生まれ育ちのようで、自然豊かな田舎を恋しがって植物を愛しているわけではないようだ。加えて、ブロンティやブロンティの恋人が、ビルの取り壊し跡を園芸公園に作り替える環境回復グループ『グリーンズ』のメンバーであることから、恋人から都会の緑地化や菜食主義の思想を洗脳された、とする考え方もできる。

今も昔も、セレブや資産家が環境保護活動や慈善事業、菜食主義を熱心につとめるイメージが私にはあるが、彼女の仕事について具体的な描写が作中になかったことから、彼女も一種の経済優位層で、恋人に自然保護活動の思想を吹きこまれながら、おもちゃを欲しがる子供のように温室付きアパートメントを欲しがり、「かわいそうな」フランス人移民を助けてやろうと、一種の慈善事業のつもりで偽装結婚に踏み切ったのかもしれないキャラクター、と読むこともできる。

ジョージもまた、観光ビザでアメリカに入国し、しれっと偽装結婚をしてまでグリーンカードを取得しようとするふてぶてしさが気になるキャラクターだが、ほぼ単一民族の日本と違って移民大国のアメリカでは、こういった不法または不法スレスレの移民をも取り込んで、経済成長していった歴史があり、よくあることなのだろう。

作品全体は、恋愛物語によくあるパターンで、正反対の性格、生い立ちのものがお互いの足りない部分を補うように惹かれ合っていく、というもので、ブロンティが経済優位層ならば、ジョージはスラム出身で、子供の頃から万引きや自動車窃盗もやっていたワルの時期があり、彼の両腕には自らの生い立ちを刻み込むかのように、いくつかのタトゥーが彫られている。

金持ちと貧乏人が出会って、恋愛が成就されるまでのある種のシンデレラストーリーを内包している悲喜劇ドラマである。