映画「タヌキ計画」(2020)

母と妹を残し、ベトナムから日本へ出稼ぎに来たタンヤ。TANUKIという舌に乗せると望みの国籍者に変身できる違法薬物を服用して、日本人に化けてホテルで働いていた。同じホテルで働いている日本人の同僚とも親しくなり、日本の生活に馴染んでいくが、薬物の副作用により、徐々にタンヤは日本人の姿のまま本来のベトナム人の姿に戻れなくなっていく…。

(大まかなあらすじを紹介)

ぴあフィルムフェスティバルに出品された本作の紹介文の一部を抜粋すると、『在日外国人の生きづらい現実をおとぎ話として描いた異色作』とある。在日外国人にとって、なにが生きづらさにつながっているのか?

当然ながら、日本は現在、植民地支配や奴隷制度を政策としてとっているわけではない。外国から人間を首根っこつかまえて強制的に日本へ連れてきて働かせたり、外国人の文化や言葉を全面的に否定して同化政策を強いているわけでもない。技能実習制度が現代の奴隷制度だと批判されることはあるが、ニュースやネットで切り取られている暴行や人権無視に関するような悪しき動画は技能実習制度のほんの一部分の闇であり、メリットも多くあるからこそ、毎年何十万人と技能実習生が日本へやってくるのだ。

日本で中国語やベトナム語やシンハラ語を喋っていても、警察や市民からリンチにあうことはないし、外国人向けの食料品店も多く存在し、彼ら彼女らが何を食べても自由だ。信仰の自由も存在し、イスラム教の礼拝所を建設することも禁止していない。

日本において、ある程度の外国人の自由は保障されているはずだ。

日本へ来て、もし日本語を喋ったり、日本らしい接客ルールやマナーを守ることが『生きづらい』とされるならば、母国で生活していればいいことだ。日本人であったって、外国に住んでいればその土地の習慣や文化を尊重することは当たり前である。それらを『生きづらさ』の一言で片づけてしまうならば、それはわがままというものだろう。では、本作で『生きづらさ』が表現された場面はなかったのだろうか?

唯一、作中で具体的に表現されている箇所は、タンヤが和食料理屋のオープンキッチンで働いているシーン。彼女は一生懸命調理をして、出来上がった料理はなんの問題もなさそうな見た目をしているが、和服をきた年配女性の客から「外国人の作った料理は食べたくない。作り直して」と言われてしまう。接客をした同僚も、「申し訳ございません。調理しなおします」と、外国人が料理をすること自体が申し訳ないことなのだと、客への返答の仕方で肯定してしまう形をとる。

外国人という見た目による差別である。これはあきらかに差別だ。出された料理の見た目が崩れていたり、調味料を間違えて味が不味かったり、髪の毛や折れた割りばしが入っていて衛生状況や危険があればクレームが発生する余地はある。しかし、見た目にも申し分なく、衛生管理も守られていた上で、ただ外国人が作ったからというだけで文句を言うならば、作中の年配女性の主張していることは差別であり、ヘイトである。

この年配女性や料理屋の同僚が無意識にしていることは、実は多くの日本人がとる態度を象徴しているのではないか。外国人に対する無関心、外国人を見たくないという心理。つまり現在の日本が置かれている状況を理解していないのだ。なぜ、日本に外国人がたくさんいるのか、と。

作中のようなオープンキッチンではなくとも、飲食店の厨房では多くの外国人が働いているし、全国の農場や工場で多くの外国人が飲食料品製造の一翼を担っている。「外国人が作った食べ物を食べたくない」とのたまいながら、無意識に外国人の作った飲食料品をコンビニやスーパーで買って食べてもいる。これは矛盾というものだろう。いまや、外国人に働いてもらわなければ各産業の現場が回らない現実がある。

日本人も在日外国人も、日常生活を送る上で、どこまでが差別で、どこまでが守るべきルールやマナーなのか明確に線引きする必要はある。ゴミ出しの仕方や、公共空間での騒音問題などに関しては、ルールやマナーは守ってもらう必要がある。一方で、コンビニの前でたむろしているだけで怖い、というような見た目に基づく感情論は、論理的な理由がない差別である。

作中でさりげなく触れられた、『外国人というだけでアパートを借りるのが大変』問題。これは、不動産屋もビジネスでやっている以上、家賃を安定的に徴収できるのかという懸念があったり(日本人の高齢者に対しても同じ理由でアパートが借りづらい問題がある)、上記のようなゴミ出しの仕方や騒音による日本人住民とのトラブル、言語の壁等あり、感情論ではないはっきりとした理由があるため、差別ではない。

どんなに努力しても『外国人だから』と、見た目による差別をされてしまう。だからTANUKIを服用して日本人の見た目に変身するのである。どこまで行けば、日本の文化を尊重し、理解していることになるだろう。外国人の見た目のままでは受け入れられる余地はないのか。

現実社会では、言葉は努力して上達することができても、ベトナム人がベトナム人としての見た目を変えることはできない。見た目が日本人ではないというだけで差別されるならば、差別する日本人の考え方を改めなければならないだろう。プライドや価値観を守ることも必要だが、目まぐるしく変わっていく世界の潮流を見極めて、井の中の蛙でいるばかりでなく、変化していくことも重要だ。どの時代においても、変化することを止めることはできない。

監督のチェ・ユシン氏は、ほのぼのした作風が特徴の荻上直子監督のファンだそうである。作中にもコミカルなわらべうたのような音楽が流れるが、確かに荻上氏のイズムを感じる。作品の全体的な雰囲気とマッチしているかどうかは別だが…。

映画「この国で、幸せになるの。」(2023)

受け入れ先の企業でこれから働くことになっていたネパール人技能実習生が、ある日突然、失踪した。通っていた日本語学校にも、住んでいる寮にも言伝はなく、どこに行ったのかわからない。

監理団体職員の根古﨑と日本語学校教師のアリスが彼の行方を捜すことになった。

技能実習生寮の冷蔵庫に貼ってある「にほんでのお困りごと 即解決」と書いてあるマグネットシートの連絡先を頼りにその事務所へ向かうと、サングラスをかけた怪しげな外国人が現れる。

怪しげな外国人はコンピューターを駆使し、いとも簡単に失踪した技能実習生の居場所を突き止める。根古﨑とアリスが失踪した技能実習生・ラビを見つけたあと、彼から失踪した理由を聞き出すと、彼より先に日本に働きに来た恋人を探していたのだという。

三人が川原で話をしていると、噂のラビの恋人が小さな子供を抱いて目の前を歩いていく。ラビが彼女を追いかけると、彼に気付いた彼女は逃げるように走っていく。

実はラビが日本に来る前に彼女は日本人と結婚していて子供を授かり、日本で家庭を築いていたのだ。

ラビは彼女との失恋に気を病み、日本で働くことなく、母国へ帰ってしまうのだった…。

(大まかなあらすじ)

本作を一言で表現するならば、『不可解』である。テーマ、ストーリー、編集…作品を構成するすべての部品がバラバラでうまくつながっていない。この映画の概要をAIが説明するところによると、「技能実習生が失踪する問題を扱い、社会のあり方に疑問を投げかける社会派ドラマ」らしい、が、社会を斬るには底抜けに牧歌的である。

本作の内容を考えるためには、まず技能実習生に関する知識を得なければならないが、以下の書籍をおススメする。

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外国人がたくさん登場するただのコメディなのか、技能実習制度に焦点を当てた社会派作品なのか立ち位置がはっきりしない。冒頭とラストで電子部品を組み立てる工場の俯瞰映像が差し込まれ、技能実習制度についての説明をする社会派映画のそぶりを見せるのだが、結局、技能実習制度に斬り込むことはなく、ふたを開けて見てみれば、恋人を追いかけて来日した失踪ネパール人を日本人が追いかけるだけの物語になっている。脚本・編集を兼任した監督のコンセプトが定まっていなかったのではないか。

もしくは、製作段階で事情が二転三転して当初の目的が遂行できなかったのかもしれない。コンセプトやテーマのはっきりしない駄作の裏事情を聞くと、多くの関係者の口が挟まれたことによって、つぎはぎだらけの出来上がりになることがままあるからだ。

ツッコミどころが満載ではある。そのツッコミどころをギャグだと主張するならば、やはり技能実習制度というワードを盛り込むべきではなかった。技能実習制度というヘビーな話題と、あまりに軽すぎるギャグのオンパレードとが、どう考えてもマッチングしない。

そもそも、失踪外国人というには、職場でハラスメントを受けたとか、説明されていた給料より実際の給料が安くて借金が返せそうになかったとか、就労目的の留学生が日本語学校に通う時間ももったいなくてとか、彼らなりの深刻な事情があるものだが、本作のネパール人の失踪理由はというと、まだ日本で働いてもいない上に恋人探しのため、とは!

「失踪外国人問題から社会を斬り込むフリをして、実はただ恋人を探しに行ってただけでした~」というギャグなのだとしたら笑えないし、くだらなすぎる。

全編、吹き替えというのもどういうことか。筆者は最初、口の動きと音声が編集ミスでずれてしまっているのだと思っていた。しかしそれはミスではなく、意図的な吹き替えであった。日本映画なのに、テレビで韓国ドラマを鑑賞している気分になる。その意図はなんなのか。日本語が喋れない外国人の場面だけを字幕にするのが手間だった。音声スタッフが雇えなくて、役者の声がうまく拾えていないので吹き替えにしてしまった。この吹き替えさえも、ギャグなのだろうか?

とにかく整合性を考えていては、この作品を鑑賞することはできない。説明することが難しく、まさに百聞は一見に如かず、である。監督は自主製作映画を撮り始めて、四十年ほどのキャリアを持つという。そんなに長いことやっているのなら、少しは上達せんものかねぇ、などと思うが…。

映画「縁の下のイミグレ」(2023)

貧しい家族を支えるため、ベトナムの田舎から【技能実習生】として日本にやってきたハイン(ナターシャ)。
ジャパニーズドリームを夢見て工場で働くも、職場での不遇(賃金未払い)が続いた(ベトナム技能実習生のジャパニーズドリームとは、日本で数年間働いて貯めたお金で、母国に家を建てたり、新しく商売を始める際の資金にすること)。

ハインの様子を不憫に思った日本人の知り合い・土井(堀家一希)は、ネット検索で無料相談できる行政書士事務所を見つけ、相談の予約をする。
訪れた先の行政書士事務所で、曲者の行政書士・近藤(マギー)と、新垣(中村優一)に対応を受けるが、彼らとの対話の中で、ハインが多額の借金をして日本に来ている事情も知り、「技能実習生」の制度の闇が徐々にわかっていく土井。
曲者の近藤は、行政書士の仕事の範囲を超え、ハインをサポートする(はずの)監理団体という団体と直接やりとりをし、それを受けて慌てて監理団体の西村(ラサール石井)も事務所に駆けつけるが、その行政書士事務所に相談したのがハインだとわかると逆にクレームを言い、我々を責めるならハインも一緒に責められるべきだと騒ぎだす。

話が二転三転する中、この国の深刻な労働者不足を外国人で補おうという政策を推進しているおバカ二世議員(猪俣三四郎)も話に加わり、話は思わぬ方向へ・・・。

多くの矛盾を抱えた技能実習制度。果たして、この国に夢を描いてやってきた外国人労働者に未来はあるのか!?外国人労働者を受け入れるこの制度で、労働力不足は補えるのか!?
「安い国ニッポン」の底を支えてる陽の目を見ない外国人労働者にスポットが当てた異色の社会派ブラックコメディ。

(おおまかに、あらすじを紹介)

技能実習制度についてなにも知らない素人にも、制度の仕組みをわかりやすく笑いをとりまぜながら解説する密室劇の構成はこの映画の魅力だが、逆境にくじけそうになりながらも大きな壁に立ちむかっていく主人公・ハインのキャラクター設定は、戦後の美空ひばり映画や往年のスポ根漫画を彷彿とさせ予定調和感がいなめない。お涙頂戴、かわいそうな外国人、技能実習制度を悪用して搾取するばかりの日本・日本企業。物語の構成はあまりにステレオタイプだ。情に流されやすい日本人好みのストーリーである。

そもそも技能実習生はかわいそうなのか?

本作に加えて、技能実習制度をより深く知りたい方には―『ルポ 技能実習生』澤田晃宏/ちくま新書―をぜひ読んでいただきたいものだが、

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確かに日本企業に対しての当たり外れはあり、過酷な労働環境といった問題も存在するらしいものの、三年や五年といった年季を勤めあげることさえできれば、日本に来るまでの借金を払い終えてなお、大金を稼ぐことができ、彼らの母国に錦を飾ることができる現実がある。作中のハインのように、縫製工場が稼げないのなら、と殺場で働くまでで、技能実習制度の期限内までに金を稼げればいいのである。人生のうちの三年や五年などあっという間なのだ。出稼ぎに来る外国人はぬるま湯に浸かりきっている日本人と違ってタフでドライである。

こういった外国人労働者、はたまた移民政策に関する映画や書籍、ネット記事を観たり読んだりしていていつも思いをはせるのは、目を向けなくてはならない本当の問題は、外国人に対する待遇の改善なんかではなくて、そもそも日本人の労働環境が劣悪であり、技能実習生など単純労働に従事する外国人に依存して、少子高齢化・出生数の減少という問題の根源を放置していることだ。上流の水が濁りきっていては、下流の水が澄んでいるはずがない。

日本にやってくる外国人の母国も将来的には経済成長していく中で、どんどんと賃金格差は狭まっていき、もはや四十年近く景気が低迷している日本に出稼ぎに来る意味はなくなっていく。応急処置的につぎはぎだらけの移民政策をしていても、傷は拡がっていくばかりである。

日本人労働者にとって、技能実習生のような年季はない。賃金は上昇し続けてはいるものの、物価高や増税によって、末端労働者に生活のゆとりができたという実感はなく、ただただ時間を浪費して死ぬまで働き続けるだけだ。

この国において技能実習制度や移民政策に関する情報は、日本人労働者・労働環境に対しての写し鏡のようだと言えよう。一部の外国人排斥運動や、外国人かわいそうバイアスをかけたニュースに踊らされることなく、彼らとの対話や共生にも重点を置きながら、日本人や日本という国にとっての国益・メリットを国民ひとりひとりが考えながら、政治を監視しなければいけない時期に来ているのかもしれない。

映画「ワイルド・ワイルド・ウェスト」(1999)

米CBSで1965年から放送された同名タイトルのドラマが原作。日本でも放送されていたが人気は出なかったらしい。以下の記事は、筆者がドラマ版のリアルタイム世代ではないため、ドラマ版をリアルタイムでテレビにかじりついて観ていた海外ファンによるネットレビューも参考にしつつ、書いていく。

1999年公開の本作、映画『ワイルド・ワイルド・ウェスト』(以下・WWW)は、ドラマ版とは作風が大きく変わってしまったため、ドラマファンからは即座に名だたる過去の低評価映画の仲間入りをさせられてしまった(原作改悪問題)。

アクションなのかコメディなのか、どっちつかずでただバカ騒ぎするだけの本作は、原作ファンが抱いている作品のイメージをことごとく裏切った。原作は子供向けでもありながら、イギリスの007シリーズのようにクールなスパイものでもあり、アメリカの成人男性が観ても血沸き肉躍るようなマッチョな西部劇の世界でもあったようだからだ。しかし本作は全体的に、漫画じみていて子供だましの演出が続く。

2025年現在、ディズニーが製作した実写版『白雪姫』(2025)が史上最低の改悪だとして、世界中の1937年公開のアニメ版『白雪姫』ファン(そして世界中の映画ファン)を激怒させているが、原作のファンが多ければ多いほど、そのイメージを覆す行為は挑戦でもあり、ほとんどの場合はタブーだ。

しかしながら、たくさんの人間が関わっている映画では、製作側の裏事情が作品のクオリティを左右することは否めない。映画はアートでもあるが、金儲けのための興行でもある。作品の中身がどうしようもなくても、映画館に観客を動員できさえすればいい(興行収入優先問題)。

本作『WWW』について、製作側の企画の立ち上げから完成までの細かい経緯については割愛するものの、キャスティングや監督候補が二転三転し、映画会社やプロデューサーの意見が反映され、立場の弱い監督や脚本家が無茶な意見を飲むこともあり、企画はお蔵入りになりかけ…となれば、コンセプトや原作ファンへの義理立てはどこへやら、製作側の完全なるご都合主義で作品が完成されることはお察しいただきたい。

コンセプトや創作に対する一貫した強い信念がない作品はどういう運命をたどるのか、といえば、三谷幸喜監督の『ラヂオの時間』(1997)の登場人物たちのやりとりや、『影の軍団 服部半蔵』(1980)のアメフト姿の忍者のように、お客様に笑っていただくしかない(ツッコミどころがある作品というのも、もしかしたら広い解釈においての良い映画なのかもしれないが)。

個人的に本作は、アーティまでもがハイテンションにならなければ、ぼーっと観るには楽しめる娯楽作品だったのではないかと思う。地味で停滞気味だった当時の日本映画よりも映画館に行く価値はある。アメリカらしい大味で、CGなど特殊効果を駆使し、カラッとしていて、ウィル・スミスがベリーダンスする女装姿もなかなか可愛かったし…。

原作ファンは、主役がウィル・スミスだったことも気に食わないらしい、「ドラマ版は白人だったのになんで黒人がジム・ウェストなんだ?」という具合で…。どことなく下品で大声で叫ぶ役柄も…(主役のキャスティング及び演技問題)。

だが、そもそも、90年代に60年代の作品をそのまま再現するというのが、さすがに時代にそぐわないことではないか。

80年代に入ると、アーノルド・シュワルツェネッガーやシルベスター・スタローンなどの強靭な肉体を誇るパワフル系の俳優が存在感を増し始めて、アクションやバイオレンス系の映画が増えた。と同時に、元コメディアンのエディ・マーフィやジム・キャリー、ロビン・ウィリアムズのようにハイテンションな芸風の俳優も登場し始めた。彼らはそのまま90年代にかけて円熟味を増していって、その時代の顔にもなっていくわけだが、初めは肉体派だったシュワちゃんやスタローンもコメディ映画に出演するようになった、というように90年代は、本作『WWW』の酷評ポイントだったー漫画じみていて子供だましの演出-をするような時代でもあった、という一面もある。

それは時代の空気によって、求められる好みも変わっていったからだと思うのだ。筆者の記憶でも、90年代は、現在よりも明るいコメディ映画が多かったような気がする。

そして上記の俳優は、元ボディビルダーだったりコメディアンだったり、初めから俳優畑でキャリアを積んでこなかった。本作を主演したウィル・スミスも元はラッパーである。もともと演劇・映画畑とは別畑の彼らに、シリアスな演技を業界が求めていなかったのではないかと筆者は考えている。役柄だって、正統派の俳優より、賑やかしのようなものが多い。

という理由によって、本作でのウィル・スミスの演技は彼自身のミスでも文脈にそぐわない行為でもなんでもなく、時代と製作側のお膳立てによってできあがったものである。

古参の原作ドラマファンには申し訳ないが、メル・ギブソンやトム・クルーズ(ウィル・スミス以前に主役打診されていた面々)にキャスティングを断られ、主演がウィル・スミスになり、監督が『メン・イン・ブラック(以下・MIB)』(1997)でタッグを組んだバリー・ソネンフェルドと決まった時点で、原作に忠実にするよりも、『MIB』と同じバディものである『WWW』を『MIB』の焼き直し作品のように、再利用したほうが得策だと考える業界人がいるのは当然だろう。ヒット作の模倣は安全で安心な結果をもたらす率が高いからである。

それにしても、黙って西部劇版『MIB』の評価に収まっておけばよかったのに、全体のバランスを崩してまでも、騒がしくて目立ちたがりなアーティを演じてしまったケヴィン・クラインの罪は大きい。その一点が悔やまれる。

映画「クレンズ・フレンズ」(2018)

ソニーピクチャーズの公式youtubeチャンネルで、2018年にアメリカで公開された「クレンズ・フレンズ」という作品が無料公開されていた。

まったくの予備知識がない作品なので、インターネットで検索をかけてみると、ホラー/コメディに分類されているらしい。私は怪談や精神的に迫ってくるようなホラーはわりと好きなほうなのだが、海外の人間が作る、スプラッターとか肉体的苦痛を伴うようなホラーは大の苦手である。というより、大嫌いだ。

おそるおそる鑑賞する…。

初めに、ソニーピクチャーズの公式HPに紹介されている、あらすじを記しておこう。

傷心の男性が、自分自身を浄化して壊れかけた人生を修復しようと、スピリチュアル系のリトリートに参加する。そこで彼は同じように悩める仲間と出会い、共に“クレンズ”というデトックス法を行う。ところが体から排除されたのは、日々の毒素だけではなかった…。

まったくホラーではなかった。言葉の行間を読むような、シュールなコメディテイスト。ホラーを思わせる気持ち悪いものと言えば、登場人物の身体から出てきた不気味なポケモンのようなもの、だけである。作品自体は、人生の岐路に立たされた登場人物たちがどうやってその困難を乗り越えるのかということを主題にした、純然たる人間ドラマである。

映画としては、特に目新しい工夫があるわけでもないし、ストーリー展開も奇抜だというわけでもない。上映時間も一時間ちょっとなので、長編映画というよりは「小品」という印象である。だからと言って、駄作だとか、平凡だとか、つまらなかったというわけではない。むしろ、個人的には意外と良作だったな、と思った。

なぜ良作だと思ったのかというと、まず、ストーリーが単純でわかりやすい。作品の構成がシンプルなので余計なことを考えずに済むということがある。俳優の演技や、体内から排出されたモンスターがなにを象徴しているのか、を考えることに集中できるのだ。そしてなにより、俳優が名バイプレーヤーばかりなのだ。

アメリカ映画をよく観ている人ならば、一度は顔を目にしたこともあるだろう、オリヴァー・プラット。アダムスファミリーのお母さん役でお馴染みのアンジェリカ・ヒューストン。主人公のポールは、2000年公開の「偶然の恋人」で口の達者なゲイのセス役をやったジョニー・ガレッキ。2022年公開の「ディナー・イン・アメリカ」で伝説的パンクバンドのフロントマン役をやったカイル・ガルナ―など…。

キャスティングが実力派勢ぞろいなので、画面に説得力がある。地味に見えるのに、豪華である。日本の伝統工芸のように、華やかさはないが、わび・さびの世界が漂っている。

あと、もうひとつ。登場人物が体内から吐き出したモンスターに手作り感があることが魅力だ。特殊技術に詳しいわけではないので、どうやって作ってどうやって動かしているのかはわからない。動かない模型を作って、あとでCG処理をほどこしているのか。ストップモーションアニメのように、関節の動く模型を一コマずつ動かしながら撮影し、作り上げているのか。しかし、これだけは言える、ということは、そのモンスターの動き方を見て、監督の映画への愛を感じる、ということだ。

大作にしろ、低予算作品にしろ、昨今はCGだかVFXだかでどれも似たり寄ったりの映像表現になってきているなかで、手作り感というのは貴重な存在意義を示しはじめている。観客の心にじわじわ染みこんでいく、するめのような味わいだ。

本作の脚本・監督を担当したのは、ボビー・ミラーといって、調べてみると手掛けた作品数もそう多くない、新人のようだ。

監督が運営しているらしきウェブサイトを発見した。

https://www.bobbymillertime.com

過去に、ショートフィルムを数本作って映画祭へ出品した後、本作が監督にとっての劇場長編映画デビュー作になっているらしい。

彼のウェブサイトにアップロードされている、ショートフィルム(『TAB』と『END TIMES』)には、「クレンズ・フレンズ」に通ずる、監督の人柄や作風が垣間見れて、今後彼の作品を観る際の良い参考になるだろう。

それにしても、ポールやマギーは心の闇に一見打ち勝ったものの、どういう人生をこれから歩んでいくのだろうか?

書籍「くよくよしない力」フジコ・ヘミング

本書は、2000年から2016年までに出版されたフジコ・ヘミング氏の書籍を参照しつつ(巻末にrefference listと記載)、彼女への過去のインタビューからエピソードを45個分抜粋して、その各エピソードから、特徴的で示唆に富む言葉を一言ずつ提示して、読者やファンへの金言集として構成したような組み立て方になっている。

例えば、part1の『愛しなさい!幸せが待っている』の中で紹介されている一つのエピソードでは、

―幸福と不幸は半分ずつ
 一生、幸福の人はいないし
 一生、不幸の人はいない

と題し、シャンソン歌手のマリア・カラスや彼女自身の人生を引き合いに出しながら、人生には良い時もあれば悪い時もあり、無理に幸せを作ることはできないし、抗おうとしても運命を変えることはできないと説明し、

「運命も人生も変えることはできない。今を受け入れることが大切。」

というワンポイントアドバイスで結ぶ。

フジコ・ヘミング名義で出版されている書籍は、その時々で少しずつテーマが変えられてはいるものの、彼女の人生についてインタビューしたものを聞き書きしているという点で、紹介されているエピソードは共通したものが多い。本書も、他の書籍で読めるようなエピソードが掲載されていて、フジコ・ヘミングファンとしては聞き馴染みのあるものばかりだが、しかし、細かい所に注目してみると、新たな情報に出会うことができるので、見落としたり流し読みをすることは禁物だ。
特に、戦争についてや両親、読書、映画や映画俳優についての話題は面白い。彼女がクラシックだけではなく、ジャズやロック、シャンソンに民謡、演歌も好きで、美空ひばりから観客へのアピールの仕方を学んでいる点も興味深かった。
クラシックファンもそうでない人も、フジコファンもそうではない人も、波乱万丈な人生を送ってきた彼女の言葉に勇気づけられたり、くじけそうになっている心が救われることもあるに違いない。

本書は第一刷が2018年に発行されているが、ほぼ内容は同じままで加筆・修正されて、2022年に『「幸福」と「不幸」は半分ずつ。』(PHP文庫)という文庫版が出版されている。
掲載されている写真が数枚ほど変更されている他、巻末の「文庫版に寄せて」というあとがきのような部分でロシアのウクライナ侵攻やコロナについて言及し、小倉百人一首の藤原清輔朝臣(ふじわらのきよすけあそん)の歌を引用しながら、ひたむきに自分の人生に向き合っていれば、きっと神様は見ていてくださるだろう、と励ましの言葉を添えていることが印象的だ。

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書籍「我が心のパリ」フジ子・ヘミング

フジコ氏がいままでに住んだパリの家を紹介しながらパリの街についても語るスタイルは、『私が歩んだ道、パリ』(ぴあ株式会社)と似た部分があるが、本書はより、彼女の芸術談や人生談について学ぶことができる。

柔らかくマットで、ややハイキーな写真も美しく、フジコが集めた小さい道具やテーブルに置かれた果物のアップの写真などが彼女の生活感をリアルに伝えてくれる。ところどころに載せられた彼女の描いた猫の絵も可愛い。

デザイナーでもあった父親の才能が遺伝したのか、小さい頃から絵を描くのが好きだったようで、彼女が絵を描いている姿を見ることができたり、同じ日本人で猫好きだった藤田嗣治に言及した折、パリで活躍した芸術家の話から芸術についての話、ひいては、どんな苦境に立たされても前向きに生きるための心得を語ったり、ためになる話がいくつも出てくる。

パリで生きるアーティスト同士、感じるものがあるのか、それとも、フジコも苦労をしてきただけ他人の苦しみや痛みが理解できるのか、社会の外側で生きるパリの大道芸人にも優しい眼差しをかける。サンジェルマン・デ・プレのカフェで遭遇した大道芸人のおばあさんと犬のエピソードが特に興味深い。

戦時中に飼っていたチャロという犬が日本軍に殺されてしまった話や、マリー・アントワネットの最期について、前記のような、決して報われなかったパリの芸術家について、はたまた大道芸人についてなど、本書全体に死の匂い、または哀愁が色濃く漂っている。

フジコやパリの街の人々を撮影した色気のあるざらついた質感のモノクロ写真に、エルスケンの『セーヌ左岸の恋』を思い出したり、巻末のソフトフォーカスがかかったメリーゴーラウンドの写真にフランソワ・トリュフォーの『大人は判ってくれない』を連想させることができた。

数々のアート作品やフジコの挿話などからパリは、明るく派手なばかりではない、物悲しく朽ちていくような孤独のイメージが筆者の頭の中に広がっていくが、その、孤独で個人主義で、日本でもドイツでもできなかった自由に生きていける雰囲気に、彼女は魅かれたのだろう。

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書籍「私が歩んだ道、パリ」イングリット・フジコ・ヘミング

本書はフジコ・ヘミングの半生を通して、不遇な時代の多くを過ごしたドイツと、若い頃から憧れの街だったフランス・パリを対比させる。そして、Chapter2からは、彼女が住んだパリの家の紹介やパリの好きな場所について紹介する。
ドイツ人とフランス人の国民性について言及する箇所があり、実際にヨーロッパに住んでみないと発見できない視点なので、筆者としては興味深い。

30歳を目前にしてベルリン留学をきっかけとして日本を飛び出し、1999年のNHKのテレビドキュメンタリーでフジコ・ヘミングブームが起こるまで、辛く暗く不遇な時代を過ごしたフジコ。その修業時代に、パリで活動した数々の芸術家の物語やモンマルトルへの憧憬が、いかに彼女の心の支えになったのかを知ることができる。

ベルリン留学時代から、たびたびお金を貯めてはモンマルトルを訪ねていたようだが、演奏家として成功し、活動が軌道に乗るようになると、憧れのパリ、憧れのモンマルトルに住むようにもなる。刺激を受けた芸術家たちの足跡をたどり、大好きなユトリロの絵画に登場する街角が実際に存在することに感動する様が愛らしい。

日本にいた頃からフランス映画も好きで、新宿の小さな名画座で映画を観た際に、その映画館があるビルの5階のトイレの窓から外を見ると、屋根が連なっていて、新宿の街並みがパリのようだった、という挿話に、彼女にとってパリは終生、夢とロマン、デラシネの自分を受け入れてくれる唯一の場所だと思いを馳せるよりどころだったのだと、想像できた。

色気のあるカラー写真と、パリの街を男に見立てたフジコの言葉。彼女がいろいろな所で買い集めたアンティークグッズや、愛猫、猫好きの彼女のイメージには珍しく、愛犬・ダギーも登場し、他の書籍やインタビューではあまり聞くことができない情報を知ることができる。大きめの文字も読みやすく、巻末には観光をスムーズに行うための豆知識とお勧めホテルの情報も載っていて、優しい。

書籍「パリ音楽散歩」フジコ・ヘミング

暗く辛かったドイツ時代とは対照的に、パリで過ごす時のフジコの心はとても満ち足りているのだろう。パリを語ると、いつの時でも、嬉しそうで、楽しそうだ。大好きな犬や猫と生活し、街を散策するだけでも、強い喜びを感じているだろうことを、聞き書きの本文は伝えている。
第1章は、パリでの生活、ドイツ・ウィーン・スウェーデンで過ごした不遇な時代のエピソード、パリを拠点に活動するようになってからヨーロッパの各地で演奏活動ができるようになったこと、母・投網子の厳しいピアノの稽古、夢見がちな少女時代、学生の頃の思い出などを語る。
第2章では、2001年にモンマルトルの丘で部屋を見つけてからの、パリでの住居の変遷(モンマルトル→サン・ルイ島→マレ)を語る。街を歩き回り、教会や美術館・博物館、骨董品屋や数々の店をまわって、冒険と発見を繰り返している様がほほえましい。書籍の構成も、カラー写真が多くなり、イラスト風の可愛い地図や、ピックアップされた各エリアのお勧め店舗が紹介されており、ガラリとガイドブックの雰囲気をたたえていて、読んでいるだけでワクワクする。
第3章はパリゆかりの音楽家を、フジコの小旅行と共に解説する。フジコが音楽家たちへの知識や愛、思いを語っているが、おそらく編集者(?)が参考資料を使って加筆しているのだろう。クラシック音楽の門外漢やにわかファンにとって知らない言葉が出てくるので、多少調べながら読まないと理解できないこともあるが、新たな知識が得られるので、苦手意識を持たずにご一読いただきたい。
フジコの半生についてのインタビュー、旅行者への楽しいガイドブック、パリにまつわる音楽家を紹介した伝記的な記事、と本書の構成はとてもバラエティに富んでいる。
『おわりに』にて、数多くの芸術家たちが目にした景色を見、教会の鐘の音に耳を傾け、生活に溶け込んだ音楽を楽しむパリ市民に思いを馳せるフジコの言葉に、読者は深い感慨にふけるだろう…。

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映画「ファースター 怒りの銃弾」(2010)

スタッフ

監督、ジョージ·ティルマン·Jr。音楽、クリント·マンセル。脚本、トニーとジョーのゲイトン兄弟で、兄のトニーはプロデュースにも参加している。

音楽を担当したクリント·マンセルは、ポップ・ウィル・イート・イットセルフというバンドの元ボーカリスト。YouTubeで聴いてみたところ、メタルやシューゲイザー、DJやシンセサイザーを使ったエレクトロニックなサウンドがごちゃまぜになったミクスチャーバンドのようだ。バンド脱退後は映画音楽に専念しているとのこと。本作のサウンドトラックは、バンド時代の音楽性を醸しだしつつも、作品の内容に寄り添ったミステリアスな雰囲気を漂わせている。

見どころ

冒頭の約10分が秀逸。主人公がどういう人物なのかがそれとなく説明されるのだが、何気ないシーンでありながらも『復讐』というテーマをうまく表現している。

刑務所の自室の壁に貼られている、主人公と仲良さそうに肩を組む男の写真。観客に、親友か兄弟だろうか?と思わせる。その写真を、決意を新たにしたような、『復讐』心に燃えるような目つきで眺める主人公。部屋の鍵が開けられ、刑務官に付き添われながら所長室まで歩く間、部屋に閉じ込められた他の受刑者が主人公に向かって悪態をつきながら、怒りに満ちた表情で叫んでいる(後の所長のセリフで判明するのだが、主人公に売った喧嘩を買われ、彼らは手ひどい仕返しを受けている)。彼らの態度も、作品のテーマである『復讐』を暗示させている。所長室にて、所長との会話をしていても、主人公は出所までの時間ばかりを気にしていて、さっさと刑務所を出たくてうずうずしている。刑務所を出るときの金網の開け方も、引きちぎって投げ捨てるような動作である(この場面も『復讐』心で煮えたぎった感情を表している)。

外に出て、辺りを見渡す。刑務所の外は砂漠地帯で、熱くてヒリヒリするような心情を代弁する。ここでマカロニ・ウェスタンで聴くようなエレキギターの音と共に、1970年前後のハードロックのようなBGMが流れ、観客は物語がどのように展開されるかまだ知らないけれども、暗示に満ちた巧みな冒頭シーンのおかげで、なんとなく主人公と同じ気持ちになっていて、居ても立っても居られない気分になる…。具体的なエピソードは一つも話していないのに、暗示シーンや主人公の動作によって、いつの間にか観客は主人公の味方になっているのだ…。

見どころ②

自動車は、本作の重要な構成要素の1つだ。

刑務所を出ると、主人公(以後、ドライバー)は、おもむろに走り始め、近くの廃車置き場にたどり着く。そこで、主役とワンセットになって活躍する車が登場する。黒の70’s シボレー シェベルSS(車体の真ん中に太い白線が2本描かれている)だ。存在感と意志の強そうな車体は、ドライバー自身を表しているようだし、車体にペイントされた2本の白線は、ドライバーと兄の絆を思わせる。

上記の車とは別に、回想シーンで、銀行強盗時にドライバーが使用していたのが、オレンジのポンティアック GTO 1967。劇中歌に1970年前後のハードロックが多用されているのはなぜだろうと思いながら鑑賞していたのだが、なるほど、小道具として使用された往年のマッスルカーとの調和を考えて、選曲されたのだろうと想像する。

見どころ③

ドライバーを含めたその他のメインキャラクターの造形も巧みだ。

離婚して一人息子の親権争い中のドラッグ依存症刑事、役名コップ。

親権争いをさせることで、人物の家庭的な雰囲気、小市民感が演出できるし、物語の本筋とはまったく関係ないのだが、コップの小さな日常の争いをかいま見せることで、観客は潜在的に、円満に解決してほしいと思うようになる(人類は昔から、争いが起これば、敵を倒すか対立している者同士をなだめすかして解決するしか選択肢がないわけだが、コップと小競り合いしている妻を殺すわけにはいかない。ならば、なんとかしてなだめすかすしか方法はない)。その観客の感情がラストシーンでの伏線回収に生きてくる。加えて、ドラッグ依存症という設定にすることで、警察官と犯罪者の線引が曖昧になり、犯罪者を罰する立場の警察官が実は犯人グループの一味だった、というようなどんでん返しに持っていけるようになる。

何者かにドライバーを殺すよう依頼された、殺し屋、役名キラーも可愛い。

キラーは一見、冷徹で非の打ち所がない人物のように見える。美人のブロンド彼女もいて(彼女も殺し屋)、眺めのいい豪邸に住んでいる。部屋の壁には大量の武器が隠された収納庫がしかけられている。まるで、ブラッド・ピットとアンジェリーナ・ジョリーがダブル主演した映画「Mr&Mrsスミス」や、007シリーズの世界観だ。しかしのちに判明することだが、キラーは幼少時、先天的に足が悪くてギプスをはめて生活していた。足の付け根から足先まで大きな傷跡が残っていて、大手術と辛いリハビリを乗り越えてきただろうことが察せられる。家に飾ってある写真からは、武道の鍛錬を積んだり、標高の高い雪山登山に挑戦した様子も伺える。最近もヨガの難しいポーズをクリアしたと嬉しそうに彼女に伝えていて、本当に努力家で健気な男なんだ!…

その他、脇役に付随する脇役たちも、殺される直前に人間味溢れる言い訳をのべたり、家庭を持って更生しようとしている様が描かれていたりして、それぞれに卑小な小悪党感がよく出ていて、ドライバーの憎しみ(観客の憎しみ)の対象なんだからさっさと殺されて然るべきなのに、どこか同情したくなる、というか、共感すべき存在に仕立てられている。

あとがきのようなもの

そういえば、キラーの携帯電話の着メロが、マカロニ・ウェスタンの傑作「続·夕陽のガンマン 地獄の決斗」のテーマ曲なのだけど、英題が「The Good, the Bad and the Ugly」、つまり「良い奴、悪い奴と卑劣な奴」で、ここにも本作の主要キャラクター3人を暗示させるような伏線が張られている。もちろん、ドライバーが良い奴で、キラーが悪い奴、コップが卑劣な奴だ。

まとめ

特に目立つ映画ではないのだが、脚本がよくできていて、どんな人でも楽しめる作品になっていると思う。ハリウッド映画の定石を忠実に守っている、というか。

展開の仕方や各パートの時間配分、目安となるシーン数はまさにブレイク·スナイダー著「SAVE THE CAT」で示されたお手本通り。感情移入しやすいキャラクター造形、小道具の使い方や音楽も良いバランスで調和している。

無惨な殺され方をした愛する兄貴の無念をはらすため、憎き敵グループのメンバーを1人ひとり虱潰しにぶっ殺していく、人間の動物的本能を強くゆさぶる、原始人にもわかる傑作物語だ。

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