1月15日〜30日

読書

『らせん』鈴木光司

昨年末、角川映画の公式YouTubeチャンネルで期間限定公開された、1990年代に一世風靡した映画『リング』を初めて観た。現代ジャパニーズホラーの火付け役とされる作品であるが、原作、映画ともにホラーというより、風変わりなミステリーだな、との印象が強かった。ジャンルはなんであれ面白かったので、続編となる『らせん』にも手を伸ばす。

そして『らせん』も同様に、ホラーではなくミステリーなのだ。『リング』がバブル期や90年代初頭の、牧歌的でありながらも暗い、スピリチュアルなものに関心があった時代背景を色濃く反映したオカルトミステリーだとすると、『らせん』は荒唐無稽なSFミステリーである。ビデオテープだけでなく、あらゆるメディアにリングウィルスが忍び込み、爆発的な感染を引き起こすと同時に、世の中の人間をくまなく貞子と高山に置き換えていこうとする。アメリカの5、60年代のSFじみた皮肉とユーモアを交えたラストやその発想がどこか可笑しい。

映画版『リング』は、貞子が井戸の中から這い上がり眼の前のテレビ画面からにゅっと出てくるシーンが話題になったり、いかにも90年代な曲調の主題歌がマッチし(繰り返し放送されるコマーシャルやお笑いタレントの話やモノマネによる効果もあって)ヒットに至ったが、映画版『らせん』はそういった売りどころがないばかりか、原作と比べて省略されている部分が多く(謎解きの過程など)、原作や前作の映画版『リング』を観ていなければ、よくわからない人もいるのではないか、というところばかりで、残念ながら完結した娯楽作品とは言えないのが難点だ。

小説は『リング』『らせん』共に読んでおいて損はないだろう。

『仄暗い水の底から』鈴木光司

東京湾、東京湾沿いの街を舞台にした七篇からなる短編集。『浮遊する水』『孤島』『穴ぐら』『夢の島クルーズ』『漂流船』『ウォーターカラー』『海に沈む森』のうち、『浮遊する水』が2002年に映画化。映画化する際、『浮遊する水』は短編集のタイトルと同様に、『仄暗い水の底から』の題名で1時間40分の長編映画として公開される。

短編集のうち、筆者が興味深く読んだのは、第六台場で産み落とされた人間の子供が野生のままサバイブする『孤島』と、昔の海外の怪奇小説のような味わいの、目玉のような模様の貝が次々と乗員を怪死させていく『漂流船』だ。

映像化によって原作の持ち味が破壊されることはままあるものの、『仄暗い水の底から』の映画版はどうだったか、果たしてアレンジが吉と出たのか凶と出たのか、というと…。個人的な感想から述べると、映画版のアレンジは改悪に値する。

原作のような理路整然さがなくなり、話があっちに行ったりこっちに行ったり。幼稚園のシーンや親権争いのシーンは必要あったのか?

原作者は「ホラーには水がつきもの。必ずゾッとするような場面には湿り気がある」というような話をよくするが、映画版では終始、大量の水が流れっぱなし、湿り気どころじゃない、その水の多さは許容量を超えたもはや白けモードレベルで、「物事には限度があるだろ!やりすぎは下品だろ!」とツッコミたくなる。ホラーというより、もはやコメディだ。

そして、自分の子供を差し置いて、幽霊の子供と昇天した母親は一番の胸クソポイント。母親が主張した不思議現象(捨てたはずの子供用のショルダーバッグが元の場所に戻されていたり上の階の部屋で怪現象があることなど)も管理人・不動産会社・弁護士も現実に起こったこととして確認しているのに(つまり母親は精神異常ではないのに)、冒頭の親権争いのシーンにて、すべて母親が体験した心霊現象は精神異常によるものかもしれませんよ?というようなフリを入れることも意味不明で気に食わない。有吉弘行氏のラジオ番組『SUNDAY NIGHT DREAMER』にて、怪談師で元芸人の島田秀平氏がゲストに来た際、有吉氏が「霊が見えるなんて言ってる人は、病院でカウンセリング受けたほうがいいんじゃないの?伝々」と心霊現象をおちょくる発言をしていたが、本作のようにホラー、怪談話をするのに、母親が精神異常だから、なんていう設定を1mmでも差し込んだら、すべてがぶち壊しなのである。

09:24~

作品全体に一貫した論理が通ってないし、ラストシーンの、子供の幽霊の体を黒染めし、ボイスチェンジャーで声を異物化して化け物じみた演出で怖がらそうという魂胆も観客をバカにしていて腹が立つ。子供向けのお化け屋敷じゃないんだから…。

短編小説を無理に一本の長編映画にするくらいなら、原作の七篇の短編をそれぞれ違う監督に演出させてオムニバスにすることはできなかったのか?と疑問がわいた。

『小説家の作り方』野崎まど

印象に残らない作品だ。ライトノベルらしいコミカル風なキャラクターのやりとりも、あまり好きではない。

『シブい本』坪内祐三

ネット上で「随筆」「エッセイ」について検索した際に、どこのサイトで発見したのか覚えていないのだが、『エッセイストになるための文庫本100冊』というリストが目についた。そして、このリストの出典元が、坪内祐三著の『シブい本』の中にある。

このリストに挙がったエッセイ本100冊はつまり(海外の著作も含まれているのだが)、日本の随筆の歴史を反映させて組まれてある。平安時代の『枕草子』『徒然草』から始まって、漱石・藤村など文豪系、戦後派、昭和軽薄体などと時代が下っていく。

エッセイストになりたいのなら、古今東西の著作を幅広く系統だてて、このリストくらいの量は読みこなさないといけませんよ、との作者からのアドバイスか。

『硝子戸の中』夏目漱石

上記の『エッセイストになるための文庫本100冊』に挙げられていた作品の一つで、癇癪持ちで屁理屈家の漱石にしては、角の取れた丸みのある文章で、いやに幼少の頃を思い出したり自らの至らぬ点を反省したりするな、と思って読んでいたら、なんと漱石が亡くなる前年に書かれたものらしい。

春のあたたかい日和の中でウトウトと見る柔らかな夢の世界のようでもあり、幕末から明治への時代の流れを知る歴史資料のようでもあり面白い。

ドラマ

『地方紙を買う女』(2007)

原作は松本清張の『地方紙を買う女』。主演、内田有紀。他に高嶋政伸、千原ジュニア、国分佐智子、温水洋一など。原作では事件現場を山梨県の山中に設定していたが、ドラマ版では宮城県へと場所を移す。震災前のこじんまりとして落ち着いたJR女川駅の駅舎やホームの姿を見ることができる。内田有紀の脚が細い。

『黒い画集 紐』(2005)

原作は松本清張の『黒い画集』シリーズから『紐』。主演、内藤剛志。他に余貴美子、石橋蓮司、真野響子など。原作では岡山の田舎町で神職をやっていた男が東京へ出てきてビジネスを起こそうとするが、ドラマ版では佐渡島に設定を移し、より、閉鎖された空間から外の世界へ出ていこうとする心理描写を強調する。ミステリーには自分勝手な犯罪者も多く登場する中で、周囲に迷惑をかけたぶんの借金は、自分の生命保険で償おうとする主人公の男に好感をもつ、と同時に、男が死んでも妻は悲しむことなく愛人と滞りなくくっつくだろう展開の哀調に胸を打つ。

『影の車』(2001)

原作は松本清張の『影の車 潜在光景』から。主演、風間杜夫。他に原田美枝子、浅田美代子など。会社から帰宅途中のバスの中で主人公の男(妻帯者)は、ふと、幼なじみだった女性(現在はシングルマザー)と偶然に再会し、やがて彼女の家に足繁く通うようになるうちに、不倫関係に発展する。男は相手の女性に、妻には感じないあたたかな心づくしを感じて、彼女の家に居心地の良さを求めるが、一方で、彼女の幼い一人息子から、敵意、どころか殺意を感じるようになり、半ばノイローゼのようになった男は、彼女の息子に殺人未遂を犯してしまう…。

松本清張自身も幼少時に父が亡くなってから、母一人子一人で育ってきたようなので、母子家庭の哀感と母に近づく男に対する感情の表現にはリアリティがある。筆者も母子家庭で育ったので、共感できる題材であると同時に、松本清張作品で一番好きな作品かもしれない。原作小説も、主人公の男の、平明で静かな語り口が心に響く。

原作自体が傑作でありながら、ドラマの撮影地が筆者の思春期を過ごした街で撮影されていることも思い入れが深くなる。現在は様変わりしてしまったその街も、ドラマを通して当時の牧歌的な雰囲気を伝えている。

松本清張の映像化作品は、あまりハズレがないようだ。ハズレがないどころか、映像化作品のほうがうまく膨らませてあって見応えがある。起用する俳優も適材適所に配置され、原作のイメージを損なわない。

『競馬場の女』(1994)

原作は『オール讀物』1993年6月号に掲載された、高村薫『馬』。主演は阿藤快、倍賞美津子。刑事である夫はある朝、意味深な表情を浮かべながら仕事に行くふりをして、突然蒸発してしまった。3年間、パートや舅の介護、義姉との関係などに苦心しながら、妻は夫が蒸発した謎を追い続ける。夫の蒸発が、身近な場所で起こったいくつもの殺人事件と関係しているかもしれない可能性やヤクザもんの登場に戸惑いながらも妻は真相を解明していく…

筆者の頭では一回観ただけではなにが面白いのかが理解できなかったので、二回観るはめになったのだが、ギャンブルをやって得をすることなど何もないという教訓を再確認したまでであった。ギャンブルに興味がない筆者にとって、ギャンブルによって破滅していく男と、その男にしがみつく女のさまを眺めているほどバカバカしいことはない。物語のキーになる夫の言動はすべて現実逃避であり、なにも解決しない。なんでもかんでも宙ぶらりんにさせて、家族に失礼だと思わないのか?とムズムズする。

しかし犯罪は案外にどうしようもないところから出発するようでもあるし、そのどうしようもなさを含めてたっぷり描くことが、人間を表現することにもなるのだろうか…。

『闇の脅迫者 江戸川乱歩の「陰獣」より』(2001)

見知らぬ誰かがどこかから自分を覗いてくる気持ちの悪さと、手紙を使って粘着質な犯人が不気味な精神的揺さぶりをかけてくる、江戸川乱歩お得意の怖がらせ方。被害者ぶっていたりまったく物語の上で動かないメインキャラが実は犯人、というミステリーの定石とも言える展開を繰り広げつつも、令和のいま読んでも古びない清新さ。ドラマ版は原作のラストのように言い訳めいたことを語らないところがいい。

根暗な役柄の多い、そしてそのような役がうまい佐野史郎と、社交的で繊細な、影のある役が似合っている川島なお美(懐かしい!)が主演。

2001年の放送当時に即して、手紙という小道具がパソコンのメールに変わっていたり、春泥がネット上に公開する小説をフロッピーディスクに保存しているところが見どころか。

『火の坂道』

『刑事の十字架』

『チロルの挽歌』

『雪国』(2022)

原作は川端康成の『雪国』。先日、わりと好きな高良健吾が出演しているので観た。しかし主演は反対に、顔が好みではない高橋一生と奈緒である。もともとは川端康成没後50周年を記念して放送されたものなので、2022年の作品だ。

もしかしたら筆者が理解できないだけかもしれないが、原作小説は過大評価されすぎているように思う。「文豪が書いた」、「ノーベル文学賞受賞作品」。その肩書に惑わされてはいやしないだろうか?

名作映画と呼ばれているものは何をもって名作としているのか、何をもって有名になったのか、といえば、個人的な考察では、印象的なシーンと良い音楽があるからである。では小説の場合ではどうか?『雪国』に関するなら冒頭の「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった〜」の一文が、映画で言うところの良い音楽に値する。平明でありながら一番最初に出てくる文章としてパンチがあり、読者は途端に雪国の世界に誘われる。作品は国語の教科書の常連でもあり、それが映画を宣伝するテレビコマーシャルの役割を担って、繰り返し々、日本国民を洗脳していったのだ。しかし、それだけだ。コマーシャルでかいつまんだ映像は面白そうでも、駄作映画なんて山ほどあるだろう…。

水掛け論のように並行するばかりのセリフ、関係者のような顔をして首を突っ込みながら傍観する島村、平板なストーリーに無理矢理、波を立たせるべく突然発生するラストの大火事と葉子の事故。

葉子役の女優もしょぼくさかった。地味で印象に残らない。原作にあるような、声が特別きれいな人でもなかった。けれども、ああいうなんでもないような人間が1番、ここぞというときに男の前で、女、を出すのだろうと思う。

島村の部屋で芸事の稽古をする奈緒はよかった。三味線は下手だし、おそらくあそこの三味線の音は吹き替えだろうけども、唄はなかなか上手だったし声もきれいだった。葉子の役を奈緒にやらせたほうが適任だったのではないか。

映画

『コールドクリーク』(2003)

『おいしい給食 卒業』(2022)

『レギオン』(2010)

『シングストリート 未来へのうた』(2016)

『トランスポーター1、トランスポーター2』

『推しが武道館いってくれたら死ぬ』(2023)

『夏美のホタル』(2016)

舞台

『キネマの天地』

『酒と泪とジキルとハイド』

『小野寺の弟 小野寺の姉』

アッパレやってまーす!木曜日

2024年1月25日、MBSラジオで放送(23:30〜25:00)されている『アッパレやってまーす!木曜日』(通称·やり木)を聴いていて不思議に思うことがあった。

リスナーメールにて、「1時間弱と聞いて、それは1時間より短いと思いますか、1時間以上経過していても1時間弱という言葉を使いますか?伝々…」というような質問を聴いたことによる。筆者の感覚では、例えば待ち合わせをしていたときに「すいません。待ち合わせ時間より1時間弱遅れます」と言われれば、50分くらい遅れるのかな?と思う。少し早く来るとして、大きな幅を見積もっても、40分後〜までを想定するだろう。しかし、なんでもそのリスナーによると、『最近の若者は、1時間よりももう少し時間のかかる、例えば1時間10分までもが「1時間弱」と捉えている』というのだ。若者とバカ者にもよるだろうが…。

例えば、1時間10分は「1時間強」、または「1時間ちょっと」と表現するだろう。遅くなるか早くなるかわからないにしても10分くらいの誤差なら「1時間ほど」になって、1時間10分が「1時間弱」になることはない。

この類の質問は小さい子供の頃にするものではないか?

料理の世界で作り方を言葉で伝えるとき、「中火」は弱と強の中間地点に存在する。「中火」と口を衝いて出れば、それはまぎれもなく、弱火でもなく強火に傾くでもない中間地点に存在する「中火」である。

その中間地点にある「中火」の概念が揺らいでしまって、弱火で焼いてくださいというのに強火で焼いて焦がしてしまったり、強火で炒めてくださいというのに弱火で炒めて生の状態で完成されたら、料理教室·料理番組·家族による味の相伝はいっさい成り立たなくなる。

1時間、はどの人間にも共通する確固とした時間の流れであって、「1時間弱」と言えば、1時間10分ではなく50分くらい、という決まった言い回しである。薪をくべて火を起こす時代ならいざしらず、「中火」と言えば、ガスコンロの最弱と最強の中間地点につまみを移動させるのが「中火」だ。

どちらも曖昧なことなどなにもない言葉だ。それなのに、そのような言葉を無知によって誤用し続ければ、言葉によって共同生活をしている人間社会が混乱をきたしてしまうだろう。確固とした意味を持つ言葉や概念の共通認識の徹底こそが、円滑に他人とコミュニケーションするための、社会人として必要な「常識」、「一般教養」の必要性ではないか?

先述の「1時間弱」論争ではレギュラーメンバーの6人中5人は「1時間弱」は50分くらいだろうとの意見で落ち着いたが、また話の流れで、「夕方」は何をもって「夕方」と呼ぶのか、という論争が巻き起こった。夕陽が沈めば夕方ではなく夜と呼ぶのだろうという意見と、時間で区切って16〜18時までが明るかろうと暗かろうと夕方だろうとの意見に分かれた。

この話はちと微妙だろう。辞書でひけば夕方·夕刻は日暮れ時と出る。時計が浸透する以前の人々は、方角や時間、季節の移り変わりを空を観察することによって決めていたわけだから、辞書をひかずとも日が沈んで暗くなれば夜である。

しかし、自然の移ろいに無頓着になり、時間=時計の数字、になってしまった現代人は、夏と冬で日没の時間が変わるような不安定な「夕方」に右往左往するよりも、16〜18時と決めてしまったほうが滞りないのだろう。

バイク屋に修理をお願いしていたドランクドラゴンの鈴木氏がバイク屋に、「夕方来てください」と言われ18時頃たずねたら、ものすごい剣幕で怒られた、とのエピソードは災難ものである。

言葉は人によって連想するイメージが違うので、会話をしていても行き違うことはしばしばだが、今回のような「時間」はどの人間にとっても、1時間なら同じ1時間が流れている。時計に支配された現代人において、Aさんの1時間がBくんの2時間でありCちゃんの3時間であるわけがない。

「1時間弱」論争は、言い回しを知らない無知が引き起こした事件なのでともかくも、「夕方」のような、共通認識、常識で対処が可能であるように見せかけて曖昧な言葉に関しては、その都度、相手に具体的な意味を確認することが必要なのかもしれない。

1月2日~14日

読書

電車内にて。主人公の女子大学生は首筋に顔を近づけるおじさんを痴漢と認識する。不快な気分のまま、彼女が目的地の駅ホームへ降車しようとすると、突然、体調に異変をきたす。その後、不可解な日常生活の変化、趣味嗜好の変化を体験する。自己分析すると、自分は吸血鬼となっているのではないか…?新井素子短編集『グリーンレクイエム』中の「週に一度のお食事を」

大手美術画廊オーナーと金で買われた駆け出しの画家、理想の画廊をオープンするべく大手画廊から独立しようとするも失敗した画商の男、一匹狼の泥棒、女性カウンセラーと二軍サッカー選手の不倫カップル、新興宗教の教祖とその教祖を慕っていた二人の男、リストラされた男、野良犬。それぞれ別々の人生を歩んでいた人々が仙台の街であやしく交差する、挫折と再生の物語…。伊坂幸太郎『ラッシュライフ』

アラサーの無職と後期高齢者が現代の世相を反映させながら、アパートに毛が生えたような4階建てのマンションで巻き起こす、おぞましくも滑稽な住人たちの悲喜劇。折原一『グランドマンション』

とある老舗の結婚式場に集う、訳ありで謎めいていてお騒がせな4組のカップルの挙式と、その式場で働く人々や結婚式の裏事情を交えながら、時系列に沿って、コミカルに、時に感動的に描く、辻村深月『本日は大安なり』

不埒な目的をもって店内に潜伏する社員、奇妙奇天烈な非常事態に翻弄される警備員、創業家出身の社長、家出してきた10代のカップル、仕事と家族から見放された男、大怪我を負いながら何者からか逃げ回っている元警察官らが、ある汚職事件や不倫のごたごたを引きずりながら、閉店後の深夜の老舗デパートで静かな大騒動を巻き起こす、信保裕一『デパートへ行こう』

千葉県市原市の工場で荷役として働きながら生きてきた中年の独身男が、ひょんなことから銀座の若い美女を介抱することになり、やがて淡い恋心を抱くようになる、短編浅田次郎『月のしずく』

今月前半で読んだのは6作品。新井素子と浅田次郎の短編は共に、幻想的というか夢見がちな文章や雰囲気をたたえていて可愛らしい。その他の長編作品はいわゆるグランドホテル形式と呼ばれる表現方法で書かれている。いずれも多くのキャラクターを登場させながらそれぞれをうまく交差させ、ハッピーエンドへと着地させる緻密でミステリーの要素を含んだ構成と技術に脱帽したが、折原一『グランドマンション』にいたっては、オチが力技というか、ラストの急激な展開にびっくりした読者はしばし放心状態となり、腑に落ちないまま次の章を読み進めることになるかもしれない。

ドラマ・映画

三が日にテレビで放送されていた映画・ドラマを中心に鑑賞する。

1月2日04時15分~06時テレビ東京で二本立て続けに放送された新春ロードショー『デーブ』『ナッシング・トゥ・ルーズ』は佳作だった。つくづくアメリカは大統領を題材にした映画が好きだなぁと思ったのと、大統領というキャラクターを通して、強いアメリカ、柔軟な考えができるアメリカを誇示し続けるアメリカ人に関心する。『ナッシング・トゥ・ルーズ』も定番のバディもので、まったく個性が違う白人と黒人が珍道中を繰り広げながら、家族愛を再確認していく物語がコミカルで平和的に描かれていて面白かったし、勧善懲悪で表現されているので、悪い奴らはちゃんと懲らしめられるし、いい奴はちゃんとハッピーエンドを迎えて安心して楽しめた。

1月4日21時フジテレビで放送された『約束のネバーランド』。昨今増え続けている漫画原作の作品なので、原作を知らない私が詳しく感想を述べることはできないのだが、設定や世界観は一見、目新しく見えるものの、実写化された映画だけに関して言えば、通称「鬼」に喰われる子供たちや人間たちの姿は、原始の人間や哺乳類が大型動物に怯えて暮らしていた時代そのままじゃないか、ということ。大きなものが小さなものを食らうのは弱肉強食の食物連鎖のなかでは当然で、いつのまにか食物連鎖から外れていた人間がまた、その輪の中に加わっただけではないか、と。そして、大きなリスクをおかしてまで孤児院を脱出し、外の世界に、より住みやすかったり魅力的な場所を見つけようとする行為も、人類の文明の発達の歴史そのものだ。より暖かい場所へ、より多くの食べ物がある場所へ。希少性の高い石や貝を手にいれるため、一本の木をくりぬいただけの丸木舟で現代の知識でも考えられないほど遠くの島へ漕ぎ出していく…。

外付けハードディスクに録画されていて、タイトルだけではどんな作品だったか思い出せないものにメリル・ストリープ主演の『幸せをつかむ歌』があった。若いころから音楽で生計を立てることを夢見て、一度は結婚し三人の子供を出産するも、家を出て、現在はスーパーでレジ打ちのバイトをしながら大衆的なステージ付きバーで有名ミュージシャンのコピーを演奏する日々を送る女性の物語だ。夫や子供に母親失格の烙印を押され、夫の二番目の妻からも家族や家族にまつわる行事をすべてすっぽかした女として冷遇されるなかで、ラストシーンの長男の結婚式にて、「私はミュージシャンで、歌でしか思いを伝えることができない。ミック・ジャガーは何人もの女と結婚してたくさんの子供を作り、一回も子供の学校行事に参加せずとも英雄視されているのに、女はたった一回の子供の発表会を欠席しただけで人間扱いされない~それでも家族の幸せを願う気持ちを歌にのせて伝えます、伝々…」といったメッセージが胸を打った。作品の公開が2015年で、Me too運動の時期とも近く、フェミニズム的観点から捉えても評価できる良作だろう。

ドラマに関して言えば、1月3日から二夜連続でテレビ朝日で放送された松本清張原作『顔』『ガラスの城』も、原作発表から半世紀以上経った今でも、色あせることなく存在感を増していた。令和の現代人でも共感しやすいように、物語のひっかきまわし役にYoutuberを登場させるのは、最近のドラマではもうお馴染みだ。

そして地味に、最近はNHKドラマに注目している。昨年から放送開始された『あきない世傳 金と銀』『仮想儀礼』は必見だ。漫画が原作で、日本テレビで放送された『波よきいてくれ』(2023)で、危険な色気を放っていた、やさぐれ金髪ヤンキーを演じた小芝風花が180度イメージチェンジし(というより元々の彼女のイメージに立ち返り)、『あきない世傳 金と銀』では、素直で純真な商才溢れる少女を演じている。肌の白さと明るい色合いの着物との取り合わせが美しい。『仮想儀礼』も、新興宗教の信者によく声をかけられる筆者にとって興味を引くモチーフを扱っているし、原作の篠田節子は多彩なジャンルを書き分けられる天才的な書き手であるので、面白くないわけがない…。

2024年

昨年末に放送していた松本清張原作ドラマ『黒革の手帳』が録画してあったので観た。
『黒革の手帳』は過去何回もリメイクされてテレビで放送されてはいるが、個人的に、本作を観たのは今回が初めてだ。

最初にことわっておくと、ここでドラマの感想を語るつもりはない。原作も読んでからにしたいし、映像化された他のバージョンも観て比較してみたい。
それよりも、なにより驚いたことは、そして今回の論題は、「このドラマは2004年に放送されたものです」の字幕を見つけたことにある。

2004年…。
20年前?

2024年が明けて2日経った現在、2004年は、もはや最近、とは言えない、20年前、という圧倒的な月日の経過を意味する。
それなのに私が、20年も前の、作品に感じられないのは、作品世界の普遍性によるものでもなく、ドラマの演出家の工夫や苦労によるアレンジ力によるものでもなく、芸能人のたえまない努力や人目にさらされることによる、若々しさを目にしているからでもない(多少は影響しているだろうが)。
潜在的に自覚しているとおり、私の中で、
時が止まっている、
のだと思う。
私の頭の中のデジタル時計はどこか2020年、もっと言うと2010年くらいで止まっている、のかもしれない…。時間が刻々と進んでいることを受け入れていない。

これから時代がさらに下っていけば、さらに自分が体感している、一昔前、や、最近、は、実際の世間の時間の流れと時差が拡大し、遠くなっていくだろう。簡単に言えば、いつまで経っても、私にとっての一昔前は80年代、90年代であり、2000年以降はつい最近である。2024年になり2034年になっても、一昔前、は80、90年代であり、つい最近、は2000年以降なのだ。やがて2054年に2004年の映像作品を鑑賞して、「つい最近の作品じゃないか」と考えるのと同時に、つい最近が50年前であることに恐怖することになる。

2010年生まれは2024年に決して驚かないだろう。大人になった2010年生まれにとって、2024年など、つい最近、だからである。
しかし私は違う。

2024年なんて、近未来SFの創作物でしか登場しなかったじゃないか!世界中を高層ビル群が埋め尽くし、その建物の間をチューブが隙間なく張り巡らされている。そのチューブの中を人間、もしくは車らしきものが縦横無尽に移動する。
そして私は若かった。

年寄りがいつまでも話題をアップデートしないのも納得だ。

私の生年月日を聞いて「つい最近じゃないか」と言った過去の年配者に思いを馳せる。
祖父母やさらに遡った先祖に思いを馳せる。
20世紀を迎え、ノストラダムスの大予言に怯えながら21世紀を迎えた、一昔前の人々。

2024年、なんて、なんとおぞましい言葉だろう。
せっかく2023という数字に慣れてきたばかりだったというのに…。

「昔は良かった」と一人ごちる老人にはなりたくない。

#364

元旦

朝、八時頃起床する。

神棚にあがっていた、おせち料理をさげて頂く。近くの大手ショッピングモールチェーンにて予約販売していたものを買い、大晦日宅配してもらったのである。

一つの箱の中によこ五列、たて四列ぐらいの仕切りがしてあって、祝い肴に、黒豆、数の子、酢ごぼう、田作り、伊達巻、栗きんとん、ゆで卵をおそらく布で濾した後かためたような黄色と白のカステラ風のもの、くるみ、紅白の飾り寒天がある。
焼き肴は、一般的に鰤、鯛、海老、鰻の焼き物らしいが、なぜかコンビニ弁当に入っているような薄い焼鮭の小さい切り身が入っているのがケチくさい。
酢の物には、いくらが乗っかった紅白なます、ちょろぎ、あわびなのか貝の食感がする丸いものが入っている。
そして煮物には昆布巻、鶏のつくねと二口大ほどの鶏肉…。

どれも奥行きのない平面的な同じ味で、ただ、甘ったるいものと甘じょっぱいの二系統が、詰め込まれている。
元旦とはいえ酒を飲む気はしなかった。正直あまり美味しくない、いかにも大量生産の工場おせちを淡々と口に運び、胃に流し込み、母の作った鶏のもも肉、人参、大根が浮かんだ雑煮汁で口直ししながら黙々とたいらげる。

昼飯は食べなかったので、夕飯まで映画のダビング作業をやったり、図書館のリサイクルコーナーでもらってきた新井素子の『グリーンレクイエム』を読んだりして過ごす。
腹ごなしに外を歩きに行こうかとも思うが、意外に人が出ているのと行くところもないのとで億劫になり、結局在宅する。

近くのS寺で鐘の音がする。

ボーン、と長い余韻を響かせて。

その音について他人は何を考えるだろう。年明けにふさわしい、風流を感じるだろうか?私にはそうはまったく思えない。
ほぼ一年中大した活動も示さない寺が正月に限って鐘をボンボン鳴らすのは、日頃無宗教で神社仏閣に滅多に寄り付かないのに正月だけ参拝を活発化させる庶民に向かって、商売の宣伝をしているのである。

ここに寺がありますよ?たくさん初詣にお出でなさい。お賽銭をたんまり投げて、多くのご祈祷依頼、お待ち申しておりますよ、と…。

#365

映画「サイダーのように言葉が湧き上がる」(2021)

アニメ音楽レーベル『フライングドッグ』設立10周年記念作品。監督・イシグロキョウヘイ、脚本・イシグロキョウヘイ&佐藤大、音楽・牛尾憲輔、主題歌・never young beach、主要キャラクターの声優に市川染五郎、杉咲花、花江夏樹、山寺宏一などがいる。

普段からアニメ作品をよく観るわけではないからか、今作の製作に関わった会社やスタッフについての知識、情報は皆無である。

いわゆるコミュ障の少年・チェリーと特徴的な前歯をマスクで隠す少女・スマイルが、二人のバイト先のデイサービスを利用する老人・フジヤマが探し続けている、彼の若き日の妻が出したレコードを共に見つけ出す行為を通じて、友情と恋心を深めながら、お互いのコンプレックスを克服していく、青春物語…。

星五つを最大評価とするならば、冒頭は星一つから始まり、ラストは星五つ、が筆者の感想だ。
尻つぼみならぬ頭つぼみ…。
終わり良ければすべて良しじゃないか、との声も聞こえるが、冒頭(いわゆる、つかみ)のシーンが個人的に気に食わなかった(むしろ最悪)だけに、冒頭シーン含めて、もっと丁寧に物語の各パートをつないでいたなら、作品の印象は大きく変わっただろう。
製作中に作品全体の雰囲気が定まっていなかったのかもしれない。
後半が徐々にしっとりとしてきていい雰囲気に盛り上がっていくだけに、特に前半のコミカル(下品)部分が鼻につく。

大きく挙げて二点。

例えば、チェリーとスマイルが劇的に出会うシーンにトリックスター(狂言回し)としてビーバーというキャラクターが登場するが、彼は単なる犯罪者だ。
ショッピングモール内の商品を盗難し、スケートボードで激しく迷走しながら館内の客を危険にさらし、言葉を覚えるためと称してタギング(落書き)を繰り返す。
作品を観た、特に若い観客は、ビーバーの行為を、作品の冒頭を清新なものにするためのカンフル剤だとして、割り切って眺められるのだろうか?
耳が遠いからといって、白目を剥いて突然絶叫するフジヤマも理解しがたい。作中の後半、フジヤマはおとなしい滋味深いキャラクターとして描かれるのに、なぜ冒頭シーンだけ、突然狂気を発症する謎設定が繰り返されるのか。

性欲が減退した老人が、あだ名のチェリー(そもそも仕事場の名札にチェリーなんてあだ名書いとくなよ)に関連付けて「おぉ!チェリーボーイっ!」と童貞をおちょくるセリフを放つことも疑問だ。キャラクターに名前をつけるとき、チェリーボーイ→チェリー→「佐倉を本名にしよう!」の連想ゲームに、そしてこのセリフをじいさんに言わせようとする脚本家に、一番の童貞くささを感じる。
観客の心をつかむための冒頭シーンで(爽やかそうなタイトルと映像美の中で)これらの行為を見るにつけ、筆者の心の扉は、ギギギ…と閉まりかかるのである。

タイトルほど、チェリーがSNSで配信する俳句に、湧き上がる思いや動感を感じないのもひっかかる。口下手ではあっても、もっと活発で動きのある少年を演出することで爽やかさが増したり、俳句にプロの監修をつけることで、より観客にチェリーの言葉や気持ちが伝わったのでは、とも思う。

愚痴ったらしくなったが、現代を象徴するショッピングモールやSNSを主題に置きながら、古臭い、レトロと呼ばれるようになった俳句やシティポップのアルバムジャケットのようなカラフルでビビッドな映像との取り合わせは、斬新で面白い。
古さをモチーフとしながらも、もはや一周まわって令和の時代に完全にマッチした新しさも感じさせた。
その意味では、近年のシティポップブームで再評価された(?)大貫妙子が歌う劇中歌「YAMAZAKURA」も、数十年前の時代性と新人アーティストがリリースした曲だといっても違和感ない現代性が絶妙に混ざり合っているようで印象深い。

映画「Shall We Dance?」(2004)

1996年、日本で公開された周防正行監督作品『shall we ダンス?』のアメリカリメイク版。

監督はピーター・チェルソム、脚本はオードリー・ウェルズ、主演はリチャード・ギア、草刈民代が演じた若き憧れの先生役は、ジェニファー・ロペスが務める。

筆者にとって日本版は(90年代に生まれ育ったものにとって)作品にうつるファッションや街の雰囲気、映像の質感-80年代後半の好景気バブルの余韻をひきずりながらも、地下鉄サリン事件や阪神淡路大震災を経てのんびりともしてられなくなった95年以降のくたびれた空気感-を多分に感じ取れて非常に懐かしく楽しめる作品だ。
ストーリー展開や構図の組み立て方、セリフやキャラクター造形、俳優の独特の間合い、すべてが絶妙で面白い。

日本版の作品の妙味は、主人公を始めとした主要キャラクターが、大きく道を外れることはしない真面目な小市民で、しかし日常生活にそこはかとない不満をかかえ、それを発散する場を探している。その彼らがひょんなことから始めたダンスに生きがいを感じ、徐々に技術が向上していくごとに灰色だった日常がカラフルに輝いていき、コンプレックスも吹っ飛ばし、まるで別人のように見違えてダンス大会で隠されていた能力を発揮していく、つまり「カタルシス」の過程にある。意図的に、稼ぎの多くはないだろう、ちびやデブやハゲ、おばさんを登場させるからこそ、普段は良い思いをすることがなさそうな彼らを、社交ダンスを通して未知なる世界へ前進させるからこそ、応援したくなるし、共感できる。

一方、アメリカ版は、というと、12時間ダイナーで働き、その後も家政婦の仕事をやって生計とダンスレッスンの費用をまかなっているボビー以外のキャラクターは、どこか切迫感がなく、ダンス教室なんか通いに来なくたって、それなりに楽しく明るく生きていけそうな奴らばっかりだ。主人公のジョンは弁護士、家も、所沢の先にある駅から遠く離れた狭小住宅などではなくて、大きな敷地に緑が生い茂り、小鳥がさえずり、明るい陽のあたる‐屋敷-とでも呼べそうなところに住んでいるし、ダンス教室の面々だって、ヴァーンには可愛い彼女がいれば、チックだって見た目も悪くないし私生活で恋愛には不自由していなさそうだ。アメリカ版のどこをみても「カタルシス」が成立する要素が存在しないのである。キャラクターに悲哀がなく「カタルシス」がなければ、どんなにダンスが上達しようと大会で成績を残そうと、感動は生まれない…。

また、設定やプロットに多少の変更はあるものの、ほぼ忠実に日本版をそっくりそのまま再現していることも、評価の分かれ目になりそうだ。なんのために日本版になぞらえたのか、大きくアレンジをほどこしたほうが、リメイクとして作品の質が上がったのではないか…。
日本版の周防正行監督によると、アメリカ版の撮影では、日本版の映像をモニターで流し、俳優たちがそれを見て確認しながら細かい演技の流れのお手本とした、と語っているが(wikipedia内の『Shall We ダンス?』脚注を参照)、それがアメリカ版の作品に良い影響を与えたのだろうか。
もう少し、羽目をはずしてでも、アメリカ独自の『Shall We Dance?』が観てみたかった。

リチャード・ギアお得意の、優雅でスマートなシーンを多用し(たとえば、黒のスーツを着て妻のために一本の赤いバラを持ってエスカレーターを昇ってくる作中のシーンのような)、アメリカらしい大味なコメディに振り切っても、じゅうぶん楽しめたのではないか?…

そしてもうひとつ、最後に文句を挙げるなら、ジェニファー・ロペスはたくましくて野性味のある人相、たたずまいが持ち味なので、憂いを帯びた様子など表現できないだろうから(失礼)、ダンス教室の窓辺に立たせないでほしい…。

映画「She said その名を暴け」

本作を認知したのは初め、2023年1月27日の朝日新聞、クロスレビュー欄の記事である。

米映画プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタイン氏の性加害に関する映画だということがわかった。ニューヨークタイムズに掲載された彼への告発記事は『#(ハッシュタグ)Me too』をつけてSNSに性被害に関する体験談を投稿する#Me too運動を引き起こすきっかけになったらしい。今となっては単なる無知としか言いようがないが、筆者は#Me too運動に正直、関心がなかった。ワインスタインという名前を聞いても、「あぁ、たしか後ろ手にされて手錠をかけられている映像をニュースで見たな…」ぐらいの感覚で、深くその事件の本質を知ろうとはしていなかった。記事の中で識者はフェミニズム映画とも捉えられると説明していたが、フェミニズムという言葉も言葉の音としてだけしか知らなかった。その時はとりあえず素通りした。

続けて、3月7日の朝日新聞、「上野千鶴子ブーム 中国女性の今」という記事を文化欄で読み、先述の映画の記事を思い出す。フェミニズムについての知識が、ワインスタインの性加害事件や世間の女性のおかれた立場を理解することに、まず必要なのではないか。上野千鶴子氏が筆者のフェミニズムへの入り口となり、彼女の著作を読み始めた。

これまで、女性の視点から社会を見つめようとする意識が完全に欠けており、自身に危害が加えられなかった男性社会の男の目線でしか、社会やものを見ていなかった、と言わざるを得ない。

フェミニズムの予備知識を多少頭に入れた後、千葉県柏市のキネ旬シアターで本作を鑑賞後、原作である書籍『その名を暴け #Me tooに火をつけたジャーナリストたちの闘い』も読む。

映画が2022年に公開されたというのは、時期としてあまりタイムリーではなく、話題性にも乏しいかもしれない。事実、評論家からの評価はそこそこ高かったものの、評判にならず、アカデミー賞の候補作にもならなかった。ハリウッドの超有名プロデューサーが作品の題材になっているのに。

#Me too運動が盛んだったのは2017年、2018年頃だったし、ワインスタイン氏は、2020年3月、ニューヨーク最高裁判所で禁錮23年の判決を既に受けてもいる。終わった話題だったのか?

しかしながら、#Me tooやワインスタイン事件というのは、性犯罪者が逮捕されたから一件落着、という話ではなく、この件をきっかけに、女性に対する社会的な仕組みや既得権益層の考え方が変わらなければ永遠に意味がない問題だ(男性が女性や弱者が憤慨している要素を理解し現状を変革する)。そして、どの時代のどの事件でも、ワンテンポ遅れて事の重大さを認識したり興味をもったりする人々も存在するはずだから(筆者がその1人)、この映画が製作されたことは十分に有益だ。

本作を鑑賞したり原作を読むことは、そしてフェミニズムの考え方を知ることは、女性や弱者が暮らしやすい社会を考えていく上での一助になると思う。

ワインスタイン氏から性被害を受けた女優、ローズ・マッゴーワン氏の言葉を引き合いに出すと、ワインスタインだけでなく、ハリウッドの映画業界自体が、

・名声をえさに女性をおびきよせ
・高額の利益を生み出す商品に変え、体を所有物のように扱い、それから放り出し
・加害者は監視されていないので恐れておらず
・どのスタジオも、侮辱しては金を払って済まし
・大半が秘密保持契約書を結ばされる
・女の方がバッシングされ
・逃げようものなら、代わりの女優志望者はたくさんいる

のだという。

この言葉を突き詰めて考えていくと、映画産業に限らず、どの産業にも構造的な共通点が見いだせるのではなかろうか?と考える。少なくとも、女性にはピンとくるはずだ。

雇用を餌に若い女性をおびきよせ、男社会・オヤジ社会に放り込まれる。職場では女性従業員のほうが数が少なく、すぐに性的な視線や言動で弄ばれる。被害を受けて不快な思いをしても、どこに相談すればいいかわからない。職場の配置換えをしてもらっても、またしてもそこはオヤジ集団。親身になって相談にのってくれていた上司の薄皮一枚下は、またたく間に豹変するセクハラ野郎かもしれない。会社にセクハラ委員会があったって、男ばかりなのだから、本気で女性の待遇改善にのりだすかはいささか疑問だ。世の中の風潮にあわせてセクハラにならないような言動を暗記してきたオヤジたちだって、本当は何が問題なのか分かっていないこともある…。

結局、職場を金のかからないキャバクラ・風俗としてしか見ていないオヤジたちから、女性の側が逃れざるを得ない。誰かが辞めたって、毎年若い女性は入社してくるのだ。

そもそも、職場や社会で権力を持つ者の多くが女性であれば、もしそれが極端だとしても、権力を持たざるとも組織における女性の割合が多ければ、男性から女性への性加害事件に蓋がされることはないはずだ。権力者や会社などの組織が男性中心だからこそ、性加害事件が起きても矮小化するような判断を下したり、見て見ぬふりをしたり、同じ男として共感しうる事柄として隠蔽を是とし、男たちは自らの保身にはしる。

男性優位社会は、会社の重役や性犯罪者でなくとも、男だというだけで、男の側に権力がある。女側が要望を通そうとすれば、男の権力におもねらなければならない構造がある。

男性側が女性に対する性をめぐる理解を深めると共に、社会や組織の構造も変わっていかなければならない。目の前に存在するのはAVやエロ本から抜け出てきたキャラクターではなく、感情のある1人の人間だという当たり前のことを最低限気に留めておくだけでも必要だろう。

筆者もまだまだ勉強不足なところがあり、このブログも具体性や説得性にかける文面になっていることは自覚しているが、また追ってジェンダーに関する理解が深まれば、記事として綴っていきたいと思っている。

宇宙でいちばんあかるい屋根/星ばあの謎

星ばあとは?

つばめの前に突然あらわれた星ばあは最初、自分が何者で、どこから来たのか明かさない。あげくの果てに、自分は空が飛べると言い放つも、実際に空を飛ぶところをつばめに見せるわけでもない、謎で奇怪な老婆。

星ばあの正体は、つばめとの対話でだんだんと判明していくが、結論から言ってしまえば、笹川の祖母・星野とよであることがわかる。
星野とよ(星ばあ)は長い間、家族とは疎遠で、誰が見舞いに来るわけでもない、病院に入院している寝たきりのおばあさんである。

病院で寝たきりの老婆が、つばめが行きつけにしている雑居ビルの屋上で動き回ったり、つばめと一緒に街を歩いたりできるのはなぜだろうか?星野とよが、病院を勝手に抜け出して遊んでいるという記述はどこにも見当たらない。

日本の精神性・他界観

私が考えるに、星ばあは『生霊』である。この令和の時代に、やれ『幽霊』だ、『あの世』だ、とか言うと、オカルトの一言で捨て去られてしまうが、星ばあを『生霊』と捉えると、日本の他界観や精神世界が作品の底を流れていることが感じられる。

日本の幽霊や他界観が形作られるまでを簡略に説明してみると、

  • 狩猟・採集をしながら暮らしていた古代日本人は、山や川、岩、風、その命をいただく動物など、ちっぽけな人間の力ではどうにもできない大きな自然のひとつひとつに、人間と同じ魂(精霊)が宿ると考えて、畏れ敬い感謝する『アニミズム』を信仰としてきた。基本的に、そのひとつひとつの精霊(神)に具体的な姿形は定められておらず、偶像崇拝的な信仰ではなかった。
  • しかし、弥生時代になり大陸から様々な文化が伝わってきて、定着農耕が行われると、「共同労働が必要である」、「耕地が子孫に伝えられる」という二つの性格から、家や家族と呼ばれる制度が強く意識される。作物の、ことに稲の種まき→発芽→開花→結実→枯死というサイクルが、人間の誕生→成人→結婚→お産→死というサイクルと重ね合わされ、死は再生のための一つのプロセスと捉えられ、死への恐怖が薄らいで、亡くなった先祖は祖霊となって現世と他界を往来するというイメージが生まれてくる。家や家族が永続するため、成員の幸福や家の土地から採れる作物が豊かに実るようにと願う気持ち・理想から、祖霊を崇め奉ることは、現世に生きる家族や作物の再生・発展に寄与するだろうという、祖霊信仰を誕生させた。
  • 時代が下がって、大陸から仏教が日本に入り浸透していくと、姿形をとらなかった他界が具体的なイメージをおびていき、亡くなった人の弔い方も、土葬と並行して火葬が普及していくことで、魂とともに肉体も他界へ行き人間の姿をしたまま、いわゆる極楽・地獄に振り分けられる、という考えも広まっていく。現世と他界を往来する祖霊は、極楽・地獄というイメージと共に、現生の人々にいい影響を与えもすれば、悪い影響を与えもする存在になった(悪い影響とはすなわち、祟り神である)。

こうして、古代からの精霊信仰と中国からの仏教の考えがミックスされていき、日本特有の他界観や幽霊観ができあがった。

つばめと対話している時期の星ばあ(星野とよ)は、まだ亡くなってはいないが、死ぬ前に孫に一目会いたいと思う強い気持ちが『生霊』となった、現世で生きる家族の幸福を願い見守る優しい、祖霊に近い存在だ(作中では星野とよ自身の家族のみならず、つばめや亨の家族の関係修復をも間接的に手助けする)。

普段から、科学的に説明できない事物をオカルトの一言で切り捨てるような人々は、星ばあが、日本の農耕社会が生み出した他界観に通じる『幽霊』、『生霊』であるという発想すら持てず、作品世界を覆う幻想的な表現や海外のファンタジー作品に登場する魔法使いのような星ばあの言動によって、今作を、中学生の思春期話に毛が生えたもの、くらいの内容でしか受け止めないであろう。

しかし、作品の底を流れる精神性に想いを馳せると、ヤングアダルトという小さい枠に押し込められない、民俗学的な視点を持つ、意外にも深くて広い世界が広がっていることが感じられる。

星ばあがつばめを選んだ理由

そこでもうひとつ、なぜ、赤の他人であるつばめの前に星ばあが現れたのかという疑問が頭をもたげる。なぜ、星ばあがつばめを選んだのか?と…。
私は、つばめが『夢見がちな』少女であったことが関係しているのではないかと仮説する。

平安時代には、夢(夜に寝た時に見る夢・頭の中で想像される映像)が、他界と交信できる手段の一つとして信じられていたし、幽霊に関する話には、夢を介する話がいくつも散見される。
夢の中では、亡くなった人があの世とこの世を自在に行き来し、夢を見ている人も、亡くなった人と喋ったり行動を共にできる。

作中でつばめが夜に見る方の夢を見たのは一回だけだが、いささかこじつけかもしれないけれど、『夢を見る』という言葉自体が、つばめと星ばあを取り持つ鍵になったのだろう。

夜に『夢を見て』、夢の中に、亡くなった人が出てくると、現世の人間と他界の人間は交流できる…。メアリーポピンズを読んで、幼いつばめの頭の中で、『夢を見て』、本気で空を飛ぶことができるんじゃないかと信じ、『夢を見』る、つばめの感性が星ばあのアンテナにひっかかり(笹川と近しい関係だったことも否めない)、つばめを通して、孫に一目会いたいと思う星野とよの『夢』が叶えられる存在として、近づいた可能性が考えられる。

まとめ

「宇宙でいちばんあかるい屋根」は、はっきりとその事について触れているわけではないが、読者や視聴者自身が、現在では『オカルト』の一言で切り捨てる日本の幽霊や他界観について意識的でなければ、特に星ばあの存在について、理解しがたい、捉えどころのない作品に感じると思うし、その事に意識を向けないと、ネット上のレビューにも実際に見受けられたように、ファンタジーと、現実的な物語のどちらにも振り切らない話として、作品の評価を貶めかねないことにもなると考える。

星ばあは『幽霊』、『生霊』である。幽霊は元来、日本の農耕社会が生み出した、現生の家族の幸福・繁栄を願う『祖霊』であった。星ばあは孫の笹川や娘のみならず、つばめや亨の家族再生にも一役買った『祖霊』的守り神である。

日本の幽霊や他界観の概念・精神性を念頭に置くことで、「宇宙でいちばんあかるい屋根」に、日本の古典文学にも通じる、奥深い世界観を感じられるだろう。