映画「ミスターソウルマン」(1986)

マーク(ハウエル)はそこそこの経済的に恵まれた家の子であったが、ハーバード大学法学部に合格した。しかし喜びもつかの間、なんと父親が学費に充てるはずのお金を全て使い果たしてしまい、進学のための費用がなくなってしまう。

困ったマークだったが、黒人学生のみに適用される奨学金制度を知り、思いつきで何とサンレスタンニングを使用して黒人に成りすますという荒技に出る。その後、マークは人種問題や自分の奨学金のせいで奨学金が貰えないサラ(レイ・ドーン・チョン)の存在を知る。

(上記、wikipediaから引用)

白人である主人公が黒人になりすますという内容のため、公開当時はアフリカ系アメリカ人の間で物議を醸し、『ニューズウィーク』誌では不快な内容の駄作として叩かれた。しかし、これらの抗議や批判があったにもかかわらず、この映画は興行面では成功した…。

とのことで、映画自体の評価はあまり高くないようだが、私はそこまで酷評するような内容の作品だとは思えなかった。

日本人なので、アメリカの人種問題について感覚的にピンと来ていない面もあるだろうが、白人であるマークが黒人になりすますことで、黒人当事者としてアメリカ社会を今までと異なった視点で改めて見渡すことができ、その経験がクラスメイトのサラとの、異人種間の恋愛に発展したことは、アメリカ社会の人種間の融和という面で、とても示唆に富んだ感動的な物語である。ただ白人が、黒人の特徴(いわゆる、黒人あるある)をあげつらって揶揄している作品ではないのだ。

アメリカの歴史の中では、白人が体を黒く塗って黒人を揶揄する、いわゆるミンストレルショウが存在した時期があるので、この映画によって黒人たちに、悪しき記憶を呼び覚ましてしまうということが低評価の理由なのかもしれない(映画ではなく小説で表現されていたら抵抗なく受け入れられそうな物語である。体を黒くしたマークの姿は黒人というより南アジア人のよう)。

が、むしろその大胆な設定によって、黒人に対する白人の嫌悪感・異人種間の深い溝を乗り越えて、マークとサラの仲が恋愛に発展していくヒューマンドラマそのものにスポットライトが当たっているからこそ、厳しい評価を下されながらも、映画館へと足を運んだ人も多かったのかもしれない、と考えられる。

不況の波にあおられて、白人至上主義者やネオナチの過激派グループの活動が活発化し暴力事件が多発した1980年代に、せめて映画の世界では異人種間の融和を見たいという多くの観客側の潜在的な欲求も手伝っていた可能性もある…。

アメリカには本作のモチーフとなった、黒人その他マイノリティの若者に奨学金を出して進学させる制度が存在する。アファーマティブアクション(積極措置)といって、マイノリティや女性の進学、卒業後の就職、昇格、ビジネス契約などに、主に人口比率で特別枠を提供する措置で、1960年代に始まった公民権運動の最大の成果だった。このおかげでマイノリティや女性は一挙に「社会主流化」し、黒人だけでも1000万人前後の新中流層が誕生した。

ただ、この制度によって、いわゆる逆差別が発生しているとする白人側の反発も存在し、本作公開時の1980年代や、2026年現在のように世の中が不況になると、人種問題が再燃し、論争の火種となることがある。心に余裕をなくした白人が攻撃の対象を求めるのだ。

日本にも昨今、外国人が日本人の雇用を奪い、国内の治安を悪化させているとする『外国人問題』なるものが話題に上ることがあるが、アメリカにはこの『外国人問題』が白人にとって常に存在するようだ(白人がネイティブアメリカンの土地に勝手に入植し、白人自ら黒人を奴隷としてアメリカ大陸に連れてきておいて、言える立場ではないはずだが)…。

それにしても、本作の公開からさらに時代を下って2026年現在、北米における白人の割合は6割を下回り、白人の貧困層も増え、白人は特権階級だと主張することも難しくなりつつある。むしろ白人がマイノリティとなって、上記のアファーマティブアクションの恩恵を受ける立場になることも考えられる(AIの台頭によって大学卒業がどれほどの意味を持つのか、この先不透明だが)。

アメリカの歴史は今また激動の時代を迎えている。新たな対立と融和を乗り越えて、これからアメリカ社会がどう変化していくのか、映画と共に動向を注視していこう。

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映画「シェフとギャルソン、リストランテの夜」(1996)

1950年代、アメリカ東部ニュージャージーの田舎町。イタリアからの移民である弟のセコンド(スタンリー・トゥッチ)と兄のプリモ(トニー・シャルーブ)は、イタリア料理のレストランを営んでいる。セコンドは店の経営とギャルソンを担当し、プリモはシェフとして料理を作り、甥のクリスチアーノ(マーク・アンソニー)も一緒に働いている。

才能あるシェフであるプリモは祖国イタリアの本格的な味にこだわっているが、アメリカ人とは感性が合わず、客はほとんど入ってこない。いよいよ経営が行き詰まり、セコンドは銀行に借金返済の猶予を頼み込むが、にべもなく断られてしまう。恋人のフィリスはセコンドとの結婚を望んでいるが、他にも愛人がいるセコンドは、店の経営難を理由に煮え切らない態度をとっている。

一方、通りの向かいでは、アメリカ人向けのイタリア料理を出すパスカルのレストランが、毎夜にぎわっている。自分の料理の純粋さに誇りを持つプリモは、パスカルの店が出す料理を許すことができない。パスカルはセコンドに、プリモと一緒に自分の店で働くよう誘うが、セコンドは兄の信念を理由にそれを断っている。

銀行による店の差し押さえが迫るなか、セコンドは兄に内緒でパスカルに借金を頼むが、パスカルは金を貸すことはできないと断る。しかし、かわりに知り合いの有名なジャズ・シンガーであるルイ・プリマに、セコンドとプリモの店を訪れるよう頼んでくれるという。セコンドは、兄にはパスカルの助力であることを隠しながら、店と自分たちの人生のため、ルイ・プリマを主賓とするパーティの準備にとりかかる。

(上記、wikipediaより引用)

1996年公開とは思えないほど、クラシカルな映像と演出が光る作品である。中途半端な妥協や見せかけの面白さでは決してごまかさない、職人気質のプリモの料理のようだ。さて、作中のプリモのような頑固とも言える態度は、ひと財産稼ごうとアメリカにやってきた移民として適切なものなのだろうか?

才能も実力も兼ね備え、自信もあるからこそ、アメリカに来ても母国の本場の味をアメリカ人にも味わってもらいたい、アメリカで本場の味を浸透させたいと願っているプリモだが、味覚や好みというのはその国の文化や歴史にも密接に関係があるわけで、信念があれば認められるものではない。

外国料理というのは、どの国でも最初から本場の味が受け入れられるものではない。日本においても、まず西洋料理としてナポリタンが誕生し、インド料理がカレーライスになり、中華料理がジャパナイズドして町中華になり、その国の人々の口に合うように改変された上で、ようやく受け入れる側の思考や好みが変化して、本場のパスタやリゾット、本格的なインド料理、中国人による四川料理が認知され、好意的に受け入れられるようになるのである。

プリモやセコンドが生きているアメリカは、ましてや1950年代であり、当時の先住アメリカ人には、まだまだ保守的な思想や感覚があったはずだ。日本人にとってみれば同じ白人でも、イタリア系はアメリカ社会に遅く参入してきた民族であり、イタリア料理が認知されていないだけでなく、人種差別もあっただろう。2018年公開の映画「グリーンブック」で、1960年代になっても、用心棒として雇われたトニーが『イタ公』と侮蔑される様子が描かれるように、保守的な時代は長く続いた。

プリモやセコンドも、アメリカの保守的な雰囲気は意識せずにはいられなかったと思う。だからこそ、セコンドの身のこなしや、パスカルの経営姿勢はアメリカナイズドされているのだ。プリモの信念も尊敬に値するが、二年も店を経営して何一つ工夫することなく廃業に追い込まれることを思うと、自業自得にも見える。作中では、経済ヤクザのようなパスカルがプリモの店に意地悪をして廃業に追い込んだように表現されているが、パスカルがルーツのイタリア風を表現しつつも、自分の店をアメリカ人好みの経営業態した経営手腕は、多国籍国家では当然の帰結だろう。日系アメリカ人が海苔巻きをそのまま出して、海苔が髪の毛のようだと嫌われるために、カリフォルニアロールを開発したように、まずはアメリカ人好みに改良してからでなくては、本場の海苔巻きや寿司だって受け入れてもらえない。

移民としてアメリカに渡ってきたということは、母国より良い生活環境を手に入れるためだろうし、まずは信念よりもビジネスを優先しなければならないはずだ。わがままを言いたいなら母国にいればいい。

おそらく、プリモは母国の親戚の店を手伝うために帰国することになるだろうし、セコンドや従業員のクリスチアーノはパスカルの店に雇われて働くことになるかもしれない。そしてセコンドの恋人のフィリスは南部に移動してカウボーイとくっつくかもしれないが、とにかく、移民というのは、自己のアイデンティティーや文化を、受け入れ国やその国の人々に一方的に押し付けるのではなくて、移民先の国の文化に合わせ自らを統合しつつ、しかし妥協的に自らのルーツを小出しに表現していくことなのかもしれない。

映画「グリーンカード」(1990)

ニューヨークで一組のカップルが結婚式を挙げた。だが2人は今日が初対面だった。園芸家のブロンティは安くて温室のあるアパートに住みたかったが、そのアパートは単身者では入居できなかった。一方、フランスからやってきたアーティストのジョージは、長期滞在の外国人永住権(グリーン・カード)を得るためにアメリカ人の妻が必要だった。

お互いの利害が一致した2人は書類だけの結婚(偽装結婚)をし、望みのものを手に入れた。ところがある日、入国管理局の調査員が偽装結婚でないかをチェックするために家を訪れるという。根掘り葉掘り質問する調査員を何とか誤魔化したものの、ひと月後の本格的な調査の面接に備える必要があった。お互いの趣味や生い立ちを暗記し、屋上でバカンスのニセ写真を撮ったりするうちに2人は惹かれ合っていった。

入国管理局の2人への面接は打ち合わせ通り進んでいたが、ジョージがある質問で間違ってしまい、とっさに暗記できなかったことを呟いてしまう。しかたなく偽造結婚を打ち明けるが、ブロンティに罪はないと伝える。

偽装結婚が発覚してアメリカから強制退去させられるジョージに、ブロンティは愛の告白をするのであった。

(上記、wikipediaからあらすじを引用。一部修正)

お互いの思惑があり、偽装結婚をしてまで望みのアパートメントに住みたい、とする設定は理解できるのだが、ブロンティが偽装結婚をしてまで「植物」に固執する理由はなぜか、が理解できなかった(もちろん、映画タイトルのグリーンカードと温室を意味するグリーンハウスのかけ言葉を狙った面もあるだろう)。

自然豊かな土地で生まれ育って、仕事のために都会に出てきたのだったら、コンクリートばかりの都会に緑を恋しく思う気持ちはわかる。仕事のために、おいそれと田舎に引っ越すこともできず、日々の癒しのために小さな植物園を作るための温室付きアパートに絶対に住みたいのだったら・・・。

しかし、ブロンティも親姉妹ももともとがニューヨークの生まれ育ちのようで、自然豊かな田舎を恋しがって植物を愛しているわけではないようだ。加えて、ブロンティやブロンティの恋人が、ビルの取り壊し跡を園芸公園に作り替える環境回復グループ『グリーンズ』のメンバーであることから、恋人から都会の緑地化や菜食主義の思想を洗脳された、とする考え方もできる。

今も昔も、セレブや資産家が環境保護活動や慈善事業、菜食主義を熱心につとめるイメージが私にはあるが、彼女の仕事について具体的な描写が作中になかったことから、彼女も一種の経済優位層で、恋人に自然保護活動の思想を吹きこまれながら、おもちゃを欲しがる子供のように温室付きアパートメントを欲しがり、「かわいそうな」フランス人移民を助けてやろうと、一種の慈善事業のつもりで偽装結婚に踏み切ったのかもしれないキャラクター、と読むこともできる。

ジョージもまた、観光ビザでアメリカに入国し、しれっと偽装結婚をしてまでグリーンカードを取得しようとするふてぶてしさが気になるキャラクターだが、ほぼ単一民族の日本と違って移民大国のアメリカでは、こういった不法または不法スレスレの移民をも取り込んで、経済成長していった歴史があり、よくあることなのだろう。

作品全体は、恋愛物語によくあるパターンで、正反対の性格、生い立ちのものがお互いの足りない部分を補うように惹かれ合っていく、というもので、ブロンティが経済優位層ならば、ジョージはスラム出身で、子供の頃から万引きや自動車窃盗もやっていたワルの時期があり、彼の両腕には自らの生い立ちを刻み込むかのように、いくつかのタトゥーが彫られている。

金持ちと貧乏人が出会って、恋愛が成就されるまでのある種のシンデレラストーリーを内包している悲喜劇ドラマである。

映画「ワイルド・ワイルド・ウェスト」(1999)

米CBSで1965年から放送された同名タイトルのドラマが原作。日本でも放送されていたが人気は出なかったらしい。以下の記事は、筆者がドラマ版のリアルタイム世代ではないため、ドラマ版をリアルタイムでテレビにかじりついて観ていた海外ファンによるネットレビューも参考にしつつ、書いていく。

1999年公開の本作、映画『ワイルド・ワイルド・ウェスト』(以下・WWW)は、ドラマ版とは作風が大きく変わってしまったため、ドラマファンからは即座に名だたる過去の低評価映画の仲間入りをさせられてしまった(原作改悪問題)。

アクションなのかコメディなのか、どっちつかずでただバカ騒ぎするだけの本作は、原作ファンが抱いている作品のイメージをことごとく裏切った。原作は子供向けでもありながら、イギリスの007シリーズのようにクールなスパイものでもあり、アメリカの成人男性が観ても血沸き肉躍るようなマッチョな西部劇の世界でもあったようだからだ。しかし本作は全体的に、漫画じみていて子供だましの演出が続く。

2025年現在、ディズニーが製作した実写版『白雪姫』(2025)が史上最低の改悪だとして、世界中の1937年公開のアニメ版『白雪姫』ファン(そして世界中の映画ファン)を激怒させているが、原作のファンが多ければ多いほど、そのイメージを覆す行為は挑戦でもあり、ほとんどの場合はタブーだ。

しかしながら、たくさんの人間が関わっている映画では、製作側の裏事情が作品のクオリティを左右することは否めない。映画はアートでもあるが、金儲けのための興行でもある。作品の中身がどうしようもなくても、映画館に観客を動員できさえすればいい(興行収入優先問題)。

本作『WWW』について、製作側の企画の立ち上げから完成までの細かい経緯については割愛するものの、キャスティングや監督候補が二転三転し、映画会社やプロデューサーの意見が反映され、立場の弱い監督や脚本家が無茶な意見を飲むこともあり、企画はお蔵入りになりかけ…となれば、コンセプトや原作ファンへの義理立てはどこへやら、製作側の完全なるご都合主義で作品が完成されることはお察しいただきたい。

コンセプトや創作に対する一貫した強い信念がない作品はどういう運命をたどるのか、といえば、三谷幸喜監督の『ラヂオの時間』(1997)の登場人物たちのやりとりや、『影の軍団 服部半蔵』(1980)のアメフト姿の忍者のように、お客様に笑っていただくしかない(ツッコミどころがある作品というのも、もしかしたら広い解釈においての良い映画なのかもしれないが)。

個人的に本作は、アーティまでもがハイテンションにならなければ、ぼーっと観るには楽しめる娯楽作品だったのではないかと思う。地味で停滞気味だった当時の日本映画よりも映画館に行く価値はある。アメリカらしい大味で、CGなど特殊効果を駆使し、カラッとしていて、ウィル・スミスがベリーダンスする女装姿もなかなか可愛かったし…。

原作ファンは、主役がウィル・スミスだったことも気に食わないらしい、「ドラマ版は白人だったのになんで黒人がジム・ウェストなんだ?」という具合で…。どことなく下品で大声で叫ぶ役柄も…(主役のキャスティング及び演技問題)。

だが、そもそも、90年代に60年代の作品をそのまま再現するというのが、さすがに時代にそぐわないことではないか。

80年代に入ると、アーノルド・シュワルツェネッガーやシルベスター・スタローンなどの強靭な肉体を誇るパワフル系の俳優が存在感を増し始めて、アクションやバイオレンス系の映画が増えた。と同時に、元コメディアンのエディ・マーフィやジム・キャリー、ロビン・ウィリアムズのようにハイテンションな芸風の俳優も登場し始めた。彼らはそのまま90年代にかけて円熟味を増していって、その時代の顔にもなっていくわけだが、初めは肉体派だったシュワちゃんやスタローンもコメディ映画に出演するようになった、というように90年代は、本作『WWW』の酷評ポイントだったー漫画じみていて子供だましの演出-をするような時代でもあった、という一面もある。

それは時代の空気によって、求められる好みも変わっていったからだと思うのだ。筆者の記憶でも、90年代は、現在よりも明るいコメディ映画が多かったような気がする。

そして上記の俳優は、元ボディビルダーだったりコメディアンだったり、初めから俳優畑でキャリアを積んでこなかった。本作を主演したウィル・スミスも元はラッパーである。もともと演劇・映画畑とは別畑の彼らに、シリアスな演技を業界が求めていなかったのではないかと筆者は考えている。役柄だって、正統派の俳優より、賑やかしのようなものが多い。

という理由によって、本作でのウィル・スミスの演技は彼自身のミスでも文脈にそぐわない行為でもなんでもなく、時代と製作側のお膳立てによってできあがったものである。

古参の原作ドラマファンには申し訳ないが、メル・ギブソンやトム・クルーズ(ウィル・スミス以前に主役打診されていた面々)にキャスティングを断られ、主演がウィル・スミスになり、監督が『メン・イン・ブラック(以下・MIB)』(1997)でタッグを組んだバリー・ソネンフェルドと決まった時点で、原作に忠実にするよりも、『MIB』と同じバディものである『WWW』を『MIB』の焼き直し作品のように、再利用したほうが得策だと考える業界人がいるのは当然だろう。ヒット作の模倣は安全で安心な結果をもたらす率が高いからである。

それにしても、黙って西部劇版『MIB』の評価に収まっておけばよかったのに、全体のバランスを崩してまでも、騒がしくて目立ちたがりなアーティを演じてしまったケヴィン・クラインの罪は大きい。その一点が悔やまれる。

映画「クレンズ・フレンズ」(2018)

ソニーピクチャーズの公式youtubeチャンネルで、2018年にアメリカで公開された「クレンズ・フレンズ」という作品が無料公開されていた。

まったくの予備知識がない作品なので、インターネットで検索をかけてみると、ホラー/コメディに分類されているらしい。私は怪談や精神的に迫ってくるようなホラーはわりと好きなほうなのだが、海外の人間が作る、スプラッターとか肉体的苦痛を伴うようなホラーは大の苦手である。というより、大嫌いだ。

おそるおそる鑑賞する…。

初めに、ソニーピクチャーズの公式HPに紹介されている、あらすじを記しておこう。

傷心の男性が、自分自身を浄化して壊れかけた人生を修復しようと、スピリチュアル系のリトリートに参加する。そこで彼は同じように悩める仲間と出会い、共に“クレンズ”というデトックス法を行う。ところが体から排除されたのは、日々の毒素だけではなかった…。

まったくホラーではなかった。言葉の行間を読むような、シュールなコメディテイスト。ホラーを思わせる気持ち悪いものと言えば、登場人物の身体から出てきた不気味なポケモンのようなもの、だけである。作品自体は、人生の岐路に立たされた登場人物たちがどうやってその困難を乗り越えるのかということを主題にした、純然たる人間ドラマである。

映画としては、特に目新しい工夫があるわけでもないし、ストーリー展開も奇抜だというわけでもない。上映時間も一時間ちょっとなので、長編映画というよりは「小品」という印象である。だからと言って、駄作だとか、平凡だとか、つまらなかったというわけではない。むしろ、個人的には意外と良作だったな、と思った。

なぜ良作だと思ったのかというと、まず、ストーリーが単純でわかりやすい。作品の構成がシンプルなので余計なことを考えずに済むということがある。俳優の演技や、体内から排出されたモンスターがなにを象徴しているのか、を考えることに集中できるのだ。そしてなにより、俳優が名バイプレーヤーばかりなのだ。

アメリカ映画をよく観ている人ならば、一度は顔を目にしたこともあるだろう、オリヴァー・プラット。アダムスファミリーのお母さん役でお馴染みのアンジェリカ・ヒューストン。主人公のポールは、2000年公開の「偶然の恋人」で口の達者なゲイのセス役をやったジョニー・ガレッキ。2022年公開の「ディナー・イン・アメリカ」で伝説的パンクバンドのフロントマン役をやったカイル・ガルナ―など…。

キャスティングが実力派勢ぞろいなので、画面に説得力がある。地味に見えるのに、豪華である。日本の伝統工芸のように、華やかさはないが、わび・さびの世界が漂っている。

あと、もうひとつ。登場人物が体内から吐き出したモンスターに手作り感があることが魅力だ。特殊技術に詳しいわけではないので、どうやって作ってどうやって動かしているのかはわからない。動かない模型を作って、あとでCG処理をほどこしているのか。ストップモーションアニメのように、関節の動く模型を一コマずつ動かしながら撮影し、作り上げているのか。しかし、これだけは言える、ということは、そのモンスターの動き方を見て、監督の映画への愛を感じる、ということだ。

大作にしろ、低予算作品にしろ、昨今はCGだかVFXだかでどれも似たり寄ったりの映像表現になってきているなかで、手作り感というのは貴重な存在意義を示しはじめている。観客の心にじわじわ染みこんでいく、するめのような味わいだ。

本作の脚本・監督を担当したのは、ボビー・ミラーといって、調べてみると手掛けた作品数もそう多くない、新人のようだ。

監督が運営しているらしきウェブサイトを発見した。

https://www.bobbymillertime.com

過去に、ショートフィルムを数本作って映画祭へ出品した後、本作が監督にとっての劇場長編映画デビュー作になっているらしい。

彼のウェブサイトにアップロードされている、ショートフィルム(『TAB』と『END TIMES』)には、「クレンズ・フレンズ」に通ずる、監督の人柄や作風が垣間見れて、今後彼の作品を観る際の良い参考になるだろう。

それにしても、ポールやマギーは心の闇に一見打ち勝ったものの、どういう人生をこれから歩んでいくのだろうか?

映画「ファースター 怒りの銃弾」(2010)

スタッフ

監督、ジョージ·ティルマン·Jr。音楽、クリント·マンセル。脚本、トニーとジョーのゲイトン兄弟で、兄のトニーはプロデュースにも参加している。

音楽を担当したクリント·マンセルは、ポップ・ウィル・イート・イットセルフというバンドの元ボーカリスト。YouTubeで聴いてみたところ、メタルやシューゲイザー、DJやシンセサイザーを使ったエレクトロニックなサウンドがごちゃまぜになったミクスチャーバンドのようだ。バンド脱退後は映画音楽に専念しているとのこと。本作のサウンドトラックは、バンド時代の音楽性を醸しだしつつも、作品の内容に寄り添ったミステリアスな雰囲気を漂わせている。

見どころ①

冒頭の約10分が秀逸。主人公がどういう人物なのかがそれとなく説明されるのだが、何気ないシーンでありながらも『復讐』というテーマをうまく表現している。

刑務所の自室の壁に貼られている、主人公と仲良さそうに肩を組む男の写真。観客に、親友か兄弟だろうか?と思わせる。その写真を、決意を新たにしたような、『復讐』心に燃えるような目つきで眺める主人公。部屋の鍵が開けられ、刑務官に付き添われながら所長室まで歩く間、部屋に閉じ込められた他の受刑者が主人公に向かって悪態をつきながら、怒りに満ちた表情で叫んでいる(後の所長のセリフで判明するのだが、主人公に売った喧嘩を買われ、彼らは手ひどい仕返しを受けている)。彼らの態度も、作品のテーマである『復讐』を暗示させている。所長室にて、所長との会話をしていても、主人公は出所までの時間ばかりを気にしていて、さっさと刑務所を出たくてうずうずしている。刑務所を出るときの金網の開け方も、引きちぎって投げ捨てるような動作である(この場面も『復讐』心で煮えたぎった感情を表している)。

外に出て、辺りを見渡す。刑務所の外は砂漠地帯で、熱くてヒリヒリするような心情を代弁する。ここでマカロニ・ウェスタンで聴くようなエレキギターの音と共に、1970年前後のハードロックのようなBGMが流れ、観客は物語がどのように展開されるかまだ知らないけれども、暗示に満ちた巧みな冒頭シーンのおかげで、なんとなく主人公と同じ気持ちになっていて、居ても立っても居られない気分になる…。具体的なエピソードは一つも話していないのに、暗示シーンや主人公の動作によって、いつの間にか観客は主人公の味方になっているのだ…。

見どころ②

自動車は、本作の重要な構成要素の1つだ。

刑務所を出ると、主人公(以後、ドライバー)は、おもむろに走り始め、近くの廃車置き場にたどり着く。そこで、主役とワンセットになって活躍する車が登場する。黒の70’s シボレー シェベルSS(車体の真ん中に太い白線が2本描かれている)だ。存在感と意志の強そうな車体は、ドライバー自身を表しているようだし、車体にペイントされた2本の白線は、ドライバーと兄の絆を思わせる。

上記の車とは別に、回想シーンで、銀行強盗時にドライバーが使用していたのが、オレンジのポンティアック GTO 1967。劇中歌に1970年前後のハードロックが多用されているのはなぜだろうと思いながら鑑賞していたのだが、なるほど、小道具として使用された往年のマッスルカーとの調和を考えて、選曲されたのだろうと想像する。

見どころ③

ドライバーを含めたその他のメインキャラクターの造形も巧みだ。

離婚して一人息子の親権争い中のドラッグ依存症刑事、役名コップ。

親権争いをさせることで、人物の家庭的な雰囲気、小市民感が演出できるし、物語の本筋とはまったく関係ないのだが、コップの小さな日常の争いをかいま見せることで、観客は潜在的に、円満に解決してほしいと思うようになる(人類は昔から、争いが起これば、敵を倒すか対立している者同士をなだめすかして解決するしか選択肢がないわけだが、コップと小競り合いしている妻を殺すわけにはいかない。ならば、なんとかしてなだめすかすしか方法はない)。その観客の感情がラストシーンでの伏線回収に生きてくる。加えて、ドラッグ依存症という設定にすることで、警察官と犯罪者の線引が曖昧になり、犯罪者を罰する立場の警察官が実は犯人グループの一味だった、というようなどんでん返しに持っていけるようになる。

何者かにドライバーを殺すよう依頼された、殺し屋、役名キラーも可愛い。

キラーは一見、冷徹で非の打ち所がない人物のように見える。美人のブロンド彼女もいて(彼女も殺し屋)、眺めのいい豪邸に住んでいる。部屋の壁には大量の武器が隠された収納庫がしかけられている。まるで、ブラッド・ピットとアンジェリーナ・ジョリーがダブル主演した映画「Mr&Mrsスミス」や、007シリーズの世界観だ。しかしのちに判明することだが、キラーは幼少時、先天的に足が悪くてギプスをはめて生活していた。足の付け根から足先まで大きな傷跡が残っていて、大手術と辛いリハビリを乗り越えてきただろうことが察せられる。家に飾ってある写真からは、武道の鍛錬を積んだり、標高の高い雪山登山に挑戦した様子も伺える。最近もヨガの難しいポーズをクリアしたと嬉しそうに彼女に伝えていて、本当に努力家で健気な男なんだ!…

その他、脇役に付随する脇役たちも、殺される直前に人間味溢れる言い訳をのべたり、家庭を持って更生しようとしている様が描かれていたりして、それぞれに卑小な小悪党感がよく出ていて、ドライバーの憎しみ(観客の憎しみ)の対象なんだからさっさと殺されて然るべきなのに、どこか同情したくなる、というか、共感すべき存在に仕立てられている。

あとがきのようなもの

そういえば、キラーの携帯電話の着メロが、マカロニ・ウェスタンの傑作「続·夕陽のガンマン 地獄の決斗」のテーマ曲なのだけど、英題が「The Good, the Bad and the Ugly」、つまり「良い奴、悪い奴と卑劣な奴」で、ここにも本作の主要キャラクター3人を暗示させるような伏線が張られている。もちろん、ドライバーが良い奴で、キラーが悪い奴、コップが卑劣な奴だ。

まとめ

特に目立つ映画ではないのだが、脚本がよくできていて、どんな人でも楽しめる作品になっていると思う。ハリウッド映画の定石を忠実に守っている、というか。

展開の仕方や各パートの時間配分、目安となるシーン数はまさにブレイク·スナイダー著「SAVE THE CAT」で示されたお手本通り。感情移入しやすいキャラクター造形、小道具の使い方や音楽も良いバランスで調和している。

無惨な殺され方をした愛する兄貴の無念をはらすため、憎き敵グループのメンバーを1人ひとり虱潰しにぶっ殺していく、人間の動物的本能を強くゆさぶる、原始人にもわかる傑作物語だ。

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映画「Shall We Dance?」(2004)

1996年、日本で公開された周防正行監督作品『shall we ダンス?』のアメリカリメイク版。

監督はピーター・チェルソム、脚本はオードリー・ウェルズ、主演はリチャード・ギア、草刈民代が演じた若き憧れの先生役は、ジェニファー・ロペスが務める。

筆者にとって日本版は(90年代に生まれ育ったものにとって)作品にうつるファッションや街の雰囲気、映像の質感に、-80年代後半の好景気バブルの余韻をひきずりながらも、バブルがはじけてからすっかり自信をなくし、どう生きていけばいいのか当時の日本人の理想生活モデルを見失った、95年以降のくたびれた空気感-を多分に感じ取れて非常に懐かしく楽しめる作品である。
ストーリー展開や構図の組み立て方、セリフやキャラクター造形、俳優の独特の間合い、すべてが絶妙で面白い。

主人公を始めとした主要キャラクターたちは、大きく道を外れることはしない真面目な小市民。日常生活にそこはかとない不満をかかえ、それを発散する場を探している。その彼らが、ひょんなことから見つけた社交ダンスに生きがいを感じ、徐々に技術が向上していくごとに、灰色だった日常がカラフルに輝いていき、コンプレックスも吹っ飛ばし、まるで別人のように見違えて、ダンス大会で隠されていた能力を発揮していく。

その「カタルシス」の過程が、日本版の作品の妙味であり見どころになるわけだが、意図的に、稼ぎが多くはないだろう、ちびやデブやハゲ、おばさんを登場させることで作品の妙味は強調される。普段は良い思いをすることがなさそうな彼らを、社交ダンスを通して未知なる世界へ前進させるからこそ、応援したくなるし、共感できる。

日本版の『shall we ダンス?』は、作中の登場人物が当時の自信を失った日本人たちを代表して、理想や希望を与え、叶えてくれる作品だったのだ。

一方、アメリカ版は、というと、12時間ダイナーで働き、その後も家政婦の仕事をやって生計とダンスレッスンの費用をまかなっているボビー以外のキャラクターは、どこか切迫感がなく、ダンス教室なんか通いに来なくたって、それなりに楽しく明るく生きていけそうな奴らばっかりだ。

主人公のジョンは弁護士、家も、所沢の先にある駅から遠く離れた狭小住宅などではなくて、大きな敷地に緑が生い茂り、小鳥がさえずり、明るい陽のあたる‐屋敷-とでも呼べそうなところに住んでいるし、ダンス教室の面々だって、ヴァーンには可愛い彼女がいれば、チックだって見た目も悪くないし私生活で恋愛には不自由していなさそうだ。

アメリカ版のどこをみても「カタルシス」が成立する要素が存在しないのである。キャラクターに悲哀がなく「カタルシス」がなければ、どんなにダンスが上達しようと大会で成績を残そうと、感動は生まれない。

また、設定やプロットに多少の変更はあるものの、ほぼ忠実に日本版をそっくりそのまま再現していることも、評価の分かれ目になりそうだ。なんのために日本版になぞらえたのか?大きくアレンジをほどこしたほうが、リメイクとして作品の質が上がったのではないか?

周防正行監督によると、アメリカ版の撮影では、日本版の映像をモニターで流し、俳優たちがそれを見て確認しながら細かい演技の流れのお手本とした、と語っているが(wikipedia内の『Shall We ダンス?』脚注を参照)、それがアメリカ版の作品に良い影響を与えたのだろうか。
もう少し、羽目をはずしてでも、アメリカ独自の『Shall We Dance?』が観てみたかった。

リチャード・ギアお得意の、優雅でスマートなシーンを多用し(黒のスーツを着て妻のために一本の赤いバラを持ってエスカレーターを昇ってくる作中のシーンのような)、アメリカらしい大味なコメディに振り切っても、充分に楽しめたのではないか。

そしてもうひとつ、最後に文句を挙げるなら、ジェニファー・ロペスはたくましくて野性味のある人相、たたずまいが持ち味なので、憂いを帯びた様子など表現できないだろうから(失礼)、ダンス教室の窓辺に立たせないでほしかった。

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映画「She said その名を暴け」

本作を認知したのは初め、2023年1月27日の朝日新聞、クロスレビュー欄の記事である。

米映画プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタイン氏の性加害に関する映画で、ニューヨークタイムズに掲載された彼への告発記事は、『#(ハッシュタグ)Me too』をつけてSNSに性被害に関する体験談を投稿する#Me too運動を引き起こすきっかけになったらしいと知る。

今となっては単なる無知としか言いようがないが、筆者は#Me too運動に正直、関心がなかった。ワインスタインという名前を聞いても、「あぁ、たしか後ろ手にされて手錠をかけられている映像をニュースで見たな…」ぐらいの感覚で、深くその事件の本質を知ろうとはしなかった。記事の中で識者は、フェミニズム映画とも捉えられる、と説明していたが、フェミニズムという言葉も言葉の音としてだけしか知らなかった。その時はとりあえず素通りした。

続けて、3月7日の朝日新聞、「上野千鶴子ブーム 中国女性の今」という記事を文化欄で読み、先述の映画の記事を思い出す。フェミニズムについての知識が、ワインスタインの性加害事件や世間の女性のおかれた立場を理解することに、まず必要なのではないか。上野千鶴子氏が筆者のフェミニズムへの入り口となり、彼女の著作を読み始めた。

これまで、女性の視点から社会を見つめようとする意識が完全に欠けており、自身に危害が加えられなかった男性社会の男の目線でしか、社会やものを見ていなかった、と自戒した。

フェミニズムの予備知識を多少なりとも頭に入れた後、千葉県柏市のキネ旬シアターで本作を鑑賞後、原作である書籍『その名を暴け #Me tooに火をつけたジャーナリストたちの闘い』も読む。

映画が2022年に公開されたというのは、時期としてあまりタイムリーではなく、話題性にも乏しかったかもしれない。事実、評論家からの評価はそこそこ高かったものの、評判にならず、アカデミー賞の候補作にもならなかった。ハリウッドの超有名プロデューサーが作品の題材になっているのに。

#Me too運動が盛んだったのは2017年、2018年頃だったし、ワインスタイン氏は、2020年3月、ニューヨーク最高裁判所で禁錮23年の判決を既に受けてもいる。終わった話題だったのか?

しかしながら、#Me tooやワインスタイン事件というのは、性犯罪者が逮捕されたから一件落着、という話ではなく、この件をきっかけに、女性に対する社会的な仕組みや既得権益層の考え方が変わらなければ永遠に意味がない問題だ(男性が女性や弱者が憤慨している要素を理解し現状を変革する)。そして、どの時代のどの事件でも、ワンテンポ遅れて事の重大さを認識したり興味をもったりする人々も存在するはずだから(筆者がその1人)、この映画が製作されたことは十分に有益だろう。

本作を鑑賞したり原作を読むことは、そしてフェミニズムの考え方を知ることは、女性や弱者が暮らしやすい社会を考えていく上での一助になると思う。

ワインスタイン氏から性被害を受けた女優、ローズ・マッゴーワン氏の言葉を引き合いに出すと、ワインスタインだけでなく、ハリウッドの映画業界自体が、

・名声をえさに女性をおびきよせ
・高額の利益を生み出す商品に変え、体を所有物のように扱い、それから放り出し
・加害者は監視されていないので恐れておらず
・どのスタジオも、侮辱しては金を払って済まし
・大半が秘密保持契約書を結ばされ
・女の方がバッシングされ
・逃げようものなら、代わりの女優志望者はたくさんいる

のだという。

この言葉を突き詰めて考えていくと、映画産業に限らず、どの産業にも構造的な共通点が見いだせるのではなかろうか?と考える。少なくとも、女性にはピンとくるはずだ。

雇用を餌に若い女性をおびきよせ、男社会・オヤジ社会に放り込まれる。職場では女性従業員のほうが数が少なく、すぐに性的な視線や言動で弄ばれる。被害を受けて不快な思いをしても、どこに相談すればいいかわからない。職場の配置換えをしてもらっても、またしてもそこはオヤジ集団。親身になって相談にのってくれていた上司の薄皮一枚下は、またたく間に豹変するセクハラ野郎かもしれない。会社にセクハラ委員会があったって、男ばかりなのだから、本気で女性の待遇改善にのりだすかはいささか疑問だ。世の中の風潮にあわせてセクハラにならないような言動を暗記してきたオヤジたちだって、本当は何が問題なのか分かっていないこともある。

結局、職場を金のかからないキャバクラ・風俗としてしか見ていないオヤジたちから、女性の側が逃れざるを得ない。誰かが辞めたって、毎年若い女性は入社してくるのだ。

そもそも、職場や社会で権力を持つ者の多くが女性であれば、もしそれが極端だとしても、権力を持たざるとも組織における女性の割合が多ければ、男性から女性への性加害事件に蓋がされることはないはずだ。権力者や会社などの組織が男性中心だからこそ、性加害事件が起きても矮小化するような判断を下したり、見て見ぬふりをしたり、同じ男として共感しうる事柄として隠蔽を是とし、男たちは自らの保身にはしる。

男性優位社会は、会社の重役や性犯罪者でなくとも、男だというだけで、男の側に権力がある。女側が要望を通そうとすれば、男の権力におもねらなければならない構造がある。

男性側が女性に対する性をめぐる理解を深めると共に、社会や組織の構造も変わっていかなければならない。目の前に存在するのはAVやエロ本から抜け出てきたキャラクターではなく、感情のある1人の人間だという当たり前のことを最低限気に留めておくだけでも必要だろう。

筆者もまだまだ勉強不足なところがあり、このブログも具体性や説得性にかける文面になっていることは自覚しているが、また追ってジェンダーに関する理解が深まれば、記事として綴っていきたいと思っている。

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