1950年代、アメリカ東部ニュージャージーの田舎町。イタリアからの移民である弟のセコンド(スタンリー・トゥッチ)と兄のプリモ(トニー・シャルーブ)は、イタリア料理のレストランを営んでいる。セコンドは店の経営とギャルソンを担当し、プリモはシェフとして料理を作り、甥のクリスチアーノ(マーク・アンソニー)も一緒に働いている。
才能あるシェフであるプリモは祖国イタリアの本格的な味にこだわっているが、アメリカ人とは感性が合わず、客はほとんど入ってこない。いよいよ経営が行き詰まり、セコンドは銀行に借金返済の猶予を頼み込むが、にべもなく断られてしまう。恋人のフィリスはセコンドとの結婚を望んでいるが、他にも愛人がいるセコンドは、店の経営難を理由に煮え切らない態度をとっている。
一方、通りの向かいでは、アメリカ人向けのイタリア料理を出すパスカルのレストランが、毎夜にぎわっている。自分の料理の純粋さに誇りを持つプリモは、パスカルの店が出す料理を許すことができない。パスカルはセコンドに、プリモと一緒に自分の店で働くよう誘うが、セコンドは兄の信念を理由にそれを断っている。
銀行による店の差し押さえが迫るなか、セコンドは兄に内緒でパスカルに借金を頼むが、パスカルは金を貸すことはできないと断る。しかし、かわりに知り合いの有名なジャズ・シンガーであるルイ・プリマに、セコンドとプリモの店を訪れるよう頼んでくれるという。セコンドは、兄にはパスカルの助力であることを隠しながら、店と自分たちの人生のため、ルイ・プリマを主賓とするパーティの準備にとりかかる。
(上記、wikipediaより引用)
1996年公開とは思えないほど、クラシカルな映像と演出が光る作品である。中途半端な妥協や見せかけの面白さでは決してごまかさない、職人気質のプリモの料理のようだ。さて、作中のプリモのような頑固とも言える態度は、ひと財産稼ごうとアメリカにやってきた移民として適切なものなのだろうか?
才能も実力も兼ね備え、自信もあるからこそ、アメリカに来ても母国の本場の味をアメリカ人にも味わってもらいたい、アメリカで本場の味を浸透させたいと願っているプリモだが、味覚や好みというのはその国の文化や歴史にも密接に関係があるわけで、信念があれば認められるものではない。
外国料理というのは、どの国でも最初から本場の味が受け入れられるものではない。日本においても、まず西洋料理としてナポリタンが誕生し、インド料理がカレーライスになり、中華料理がジャパナイズドして町中華になり、その国の人々の口に合うように改変された上で、ようやく受け入れる側の思考や好みが変化して、本場のパスタやリゾット、本格的なインド料理、中国人による四川料理が認知され、好意的に受け入れられるようになるのである。
プリモやセコンドが生きているアメリカは、ましてや1950年代であり、当時の先住アメリカ人には、まだまだ保守的な思想や感覚があったはずだ。日本人にとってみれば同じ白人でも、イタリア系はアメリカ社会に遅く参入してきた民族であり、イタリア料理が認知されていないだけでなく、人種差別もあっただろう。2018年公開の映画「グリーンブック」で、1960年代になっても、用心棒として雇われたトニーが『イタ公』と侮蔑される様子が描かれるように、保守的な時代は長く続いた。
プリモやセコンドも、アメリカの保守的な雰囲気は意識せずにはいられなかったと思う。だからこそ、セコンドの身のこなしや、パスカルの経営姿勢はアメリカナイズドされているのだ。プリモの信念も尊敬に値するが、二年も店を経営して何一つ工夫することなく廃業に追い込まれることを思うと、自業自得にも見える。作中では、経済ヤクザのようなパスカルがプリモの店に意地悪をして廃業に追い込んだように表現されているが、パスカルがルーツのイタリア風を表現しつつも、自分の店をアメリカ人好みの経営業態した経営手腕は、多国籍国家では当然の帰結だろう。日系アメリカ人が海苔巻きをそのまま出して、海苔が髪の毛のようだと嫌われるために、カリフォルニアロールを開発したように、まずはアメリカ人好みに改良してからでなくては、本場の海苔巻きや寿司だって受け入れてもらえない。
移民としてアメリカに渡ってきたということは、母国より良い生活環境を手に入れるためだろうし、まずは信念よりもビジネスを優先しなければならないはずだ。わがままを言いたいなら母国にいればいい。
おそらく、プリモは母国の親戚の店を手伝うために帰国することになるだろうし、セコンドや従業員のクリスチアーノはパスカルの店に雇われて働くことになるかもしれない。そしてセコンドの恋人のフィリスは南部に移動してカウボーイとくっつくかもしれないが、とにかく、移民というのは、自己のアイデンティティーや文化を、受け入れ国やその国の人々に一方的に押し付けるのではなくて、移民先の国の文化に合わせ自らを統合しつつ、しかし妥協的に自らのルーツを小出しに表現していくことなのかもしれない。