2000~

映画「Shall We Dance?」(2004)

1996年、日本で公開された周防正行監督作品『shall we ダンス?』のアメリカリメイク版。

監督はピーター・チェルソム、脚本はオードリー・ウェルズ、主演はリチャード・ギア、草刈民代が演じた若き憧れの先生役は、ジェニファー・ロペスが務める。

筆者にとって日本版は(90年代に生まれ育ったものにとって)作品にうつるファッションや街の雰囲気、映像の質感に、-80年代後半の好景気バブルの余韻をひきずりながらも、バブルがはじけてからすっかり自信をなくし、どう生きていけばいいのか当時の日本人の理想生活モデルを見失った、95年以降のくたびれた空気感-を多分に感じ取れて非常に懐かしく楽しめる作品である。
ストーリー展開や構図の組み立て方、セリフやキャラクター造形、俳優の独特の間合い、すべてが絶妙で面白い。

主人公を始めとした主要キャラクターたちは、大きく道を外れることはしない真面目な小市民。日常生活にそこはかとない不満をかかえ、それを発散する場を探している。その彼らが、ひょんなことから見つけた社交ダンスに生きがいを感じ、徐々に技術が向上していくごとに、灰色だった日常がカラフルに輝いていき、コンプレックスも吹っ飛ばし、まるで別人のように見違えて、ダンス大会で隠されていた能力を発揮していく。

その「カタルシス」の過程が、日本版の作品の妙味であり見どころになるわけだが、意図的に、稼ぎが多くはないだろう、ちびやデブやハゲ、おばさんを登場させることで作品の妙味は強調される。普段は良い思いをすることがなさそうな彼らを、社交ダンスを通して未知なる世界へ前進させるからこそ、応援したくなるし、共感できる。

日本版の『shall we ダンス?』は、作中の登場人物が当時の自信を失った日本人たちを代表して、理想や希望を与え、叶えてくれる作品だったのだ。

一方、アメリカ版は、というと、12時間ダイナーで働き、その後も家政婦の仕事をやって生計とダンスレッスンの費用をまかなっているボビー以外のキャラクターは、どこか切迫感がなく、ダンス教室なんか通いに来なくたって、それなりに楽しく明るく生きていけそうな奴らばっかりだ。

主人公のジョンは弁護士、家も、所沢の先にある駅から遠く離れた狭小住宅などではなくて、大きな敷地に緑が生い茂り、小鳥がさえずり、明るい陽のあたる‐屋敷-とでも呼べそうなところに住んでいるし、ダンス教室の面々だって、ヴァーンには可愛い彼女がいれば、チックだって見た目も悪くないし私生活で恋愛には不自由していなさそうだ。

アメリカ版のどこをみても「カタルシス」が成立する要素が存在しないのである。キャラクターに悲哀がなく「カタルシス」がなければ、どんなにダンスが上達しようと大会で成績を残そうと、感動は生まれない。

また、設定やプロットに多少の変更はあるものの、ほぼ忠実に日本版をそっくりそのまま再現していることも、評価の分かれ目になりそうだ。なんのために日本版になぞらえたのか?大きくアレンジをほどこしたほうが、リメイクとして作品の質が上がったのではないか?

周防正行監督によると、アメリカ版の撮影では、日本版の映像をモニターで流し、俳優たちがそれを見て確認しながら細かい演技の流れのお手本とした、と語っているが(wikipedia内の『Shall We ダンス?』脚注を参照)、それがアメリカ版の作品に良い影響を与えたのだろうか。
もう少し、羽目をはずしてでも、アメリカ独自の『Shall We Dance?』が観てみたかった。

リチャード・ギアお得意の、優雅でスマートなシーンを多用し(黒のスーツを着て妻のために一本の赤いバラを持ってエスカレーターを昇ってくる作中のシーンのような)、アメリカらしい大味なコメディに振り切っても、充分に楽しめたのではないか。

そしてもうひとつ、最後に文句を挙げるなら、ジェニファー・ロペスはたくましくて野性味のある人相、たたずまいが持ち味なので、憂いを帯びた様子など表現できないだろうから(失礼)、ダンス教室の窓辺に立たせないでほしかった。

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宇宙でいちばんあかるい屋根/星ばあの謎

星ばあとは?

つばめの前に突然あらわれた星ばあは最初、自分が何者で、どこから来たのか明かさない。あげくの果てに、自分は空が飛べると言い放つも、実際に空を飛ぶところをつばめに見せるわけでもない、謎で奇怪な老婆。

星ばあの正体は、つばめとの対話でだんだんと判明していくが、結論から言ってしまえば、笹川の祖母・星野とよであることがわかる。
星野とよ(星ばあ)は長い間、家族とは疎遠で、誰が見舞いに来るわけでもない、病院に入院している寝たきりのおばあさんである。

病院で寝たきりの老婆が、つばめが行きつけにしている雑居ビルの屋上で動き回ったり、つばめと一緒に街を歩いたりできるのはなぜだろうか?星野とよが、病院を勝手に抜け出して遊んでいるという記述はどこにも見当たらない。

日本の精神性・他界観

私が考えるに、星ばあは『生霊』である。この令和の時代に、やれ『幽霊』だ、『あの世』だ、とか言うと、オカルトの一言で捨て去られてしまうが、星ばあを『生霊』と捉えると、日本の他界観や精神世界が作品の底を流れていることが感じられる。

日本の幽霊や他界観が形作られるまでを簡略に説明してみると、

  • 狩猟・採集をしながら暮らしていた古代日本人は、山や川、岩、風、その命をいただく動物など、ちっぽけな人間の力ではどうにもできない大きな自然のひとつひとつに、人間と同じ魂(精霊)が宿ると考えて、畏れ敬い感謝する『アニミズム』を信仰としてきた。基本的に、そのひとつひとつの精霊(神)に具体的な姿形は定められておらず、偶像崇拝的な信仰ではなかった。
  • しかし、弥生時代になり大陸から様々な文化が伝わってきて、定着農耕が行われると、「共同労働が必要である」、「耕地が子孫に伝えられる」という二つの性格から、家や家族と呼ばれる制度が強く意識される。作物の、ことに稲の種まき→発芽→開花→結実→枯死というサイクルが、人間の誕生→成人→結婚→お産→死というサイクルと重ね合わされ、死は再生のための一つのプロセスと捉えられ、死への恐怖が薄らいで、亡くなった先祖は祖霊となって現世と他界を往来するというイメージが生まれてくる。家や家族が永続するため、成員の幸福や家の土地から採れる作物が豊かに実るようにと願う気持ち・理想から、祖霊を崇め奉ることは、現世に生きる家族や作物の再生・発展に寄与するだろうという、祖霊信仰を誕生させた。
  • 時代が下がって、大陸から仏教が日本に入り浸透していくと、姿形をとらなかった他界が具体的なイメージをおびていき、亡くなった人の弔い方も、土葬と並行して火葬が普及していくことで、魂とともに肉体も他界へ行き人間の姿をしたまま、いわゆる極楽・地獄に振り分けられる、という考えも広まっていく。現世と他界を往来する祖霊は、極楽・地獄というイメージと共に、現生の人々にいい影響を与えもすれば、悪い影響を与えもする存在になった(悪い影響とはすなわち、祟り神である)。

こうして、古代からの精霊信仰と中国からの仏教の考えがミックスされていき、日本特有の他界観や幽霊観ができあがった。

つばめと対話している時期の星ばあ(星野とよ)は、まだ亡くなってはいないが、死ぬ前に孫に一目会いたいと思う強い気持ちが『生霊』となった、現世で生きる家族の幸福を願い見守る優しい、祖霊に近い存在だ(作中では星野とよ自身の家族のみならず、つばめや亨の家族の関係修復をも間接的に手助けする)。

普段から、科学的に説明できない事物をオカルトの一言で切り捨てるような人々は、星ばあが、日本の農耕社会が生み出した他界観に通じる『幽霊』、『生霊』であるという発想すら持てず、作品世界を覆う幻想的な表現や海外のファンタジー作品に登場する魔法使いのような星ばあの言動によって、今作を、中学生の思春期話に毛が生えたもの、くらいの内容でしか受け止めないであろう。

しかし、作品の底を流れる精神性に想いを馳せると、ヤングアダルトという小さい枠に押し込められない、民俗学的な視点を持つ、意外にも深くて広い世界が広がっていることが感じられる。

星ばあがつばめを選んだ理由

そこでもうひとつ、なぜ、赤の他人であるつばめの前に星ばあが現れたのかという疑問が頭をもたげる。なぜ、星ばあがつばめを選んだのか?と…。
私は、つばめが『夢見がちな』少女であったことが関係しているのではないかと仮説する。

平安時代には、夢(夜に寝た時に見る夢・頭の中で想像される映像)が、他界と交信できる手段の一つとして信じられていたし、幽霊に関する話には、夢を介する話がいくつも散見される。
夢の中では、亡くなった人があの世とこの世を自在に行き来し、夢を見ている人も、亡くなった人と喋ったり行動を共にできる。

作中でつばめが夜に見る方の夢を見たのは一回だけだが、いささかこじつけかもしれないけれど、『夢を見る』という言葉自体が、つばめと星ばあを取り持つ鍵になったのだろう。

夜に『夢を見て』、夢の中に、亡くなった人が出てくると、現世の人間と他界の人間は交流できる…。メアリーポピンズを読んで、幼いつばめの頭の中で、『夢を見て』、本気で空を飛ぶことができるんじゃないかと信じ、『夢を見』る、つばめの感性が星ばあのアンテナにひっかかり(笹川と近しい関係だったことも否めない)、つばめを通して、孫に一目会いたいと思う星野とよの『夢』が叶えられる存在として、近づいた可能性が考えられる。

まとめ

「宇宙でいちばんあかるい屋根」は、はっきりとその事について触れているわけではないが、読者や視聴者自身が、現在では『オカルト』の一言で切り捨てる日本の幽霊や他界観について意識的でなければ、特に星ばあの存在について、理解しがたい、捉えどころのない作品に感じると思うし、その事に意識を向けないと、ネット上のレビューにも実際に見受けられたように、ファンタジーと、現実的な物語のどちらにも振り切らない話として、作品の評価を貶めかねないことにもなると考える。

星ばあは『幽霊』、『生霊』である。幽霊は元来、日本の農耕社会が生み出した、現生の家族の幸福・繁栄を願う『祖霊』であった。星ばあは孫の笹川や娘のみならず、つばめや亨の家族再生にも一役買った『祖霊』的守り神である。

日本の幽霊や他界観の概念・精神性を念頭に置くことで、「宇宙でいちばんあかるい屋根」に、日本の古典文学にも通じる、奥深い世界観を感じられるだろう。

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