映画

映画「タヌキ計画」(2020)

母と妹を残し、ベトナムから日本へ出稼ぎに来たタンヤ。TANUKIという舌に乗せると望みの国籍者に変身できる違法薬物を服用して、日本人に化けてホテルで働いていた。同じホテルで働いている日本人の同僚とも親しくなり、日本の生活に馴染んでいくが、薬物の副作用により、徐々にタンヤは日本人の姿のまま本来のベトナム人の姿に戻れなくなっていく…。

(大まかなあらすじを紹介)

ぴあフィルムフェスティバルに出品された本作の紹介文の一部を抜粋すると、『在日外国人の生きづらい現実をおとぎ話として描いた異色作』とある。在日外国人にとって、なにが生きづらさにつながっているのか?

当然ながら、日本は現在、植民地支配や奴隷制度を政策としてとっているわけではない。外国から人間を首根っこつかまえて強制的に日本へ連れてきて働かせたり、外国人の文化や言葉を全面的に否定して同化政策を強いているわけでもない。技能実習制度が現代の奴隷制度だと批判されることはあるが、ニュースやネットで切り取られている暴行や人権無視に関するような悪しき動画は技能実習制度のほんの一部分の闇であり、メリットも多くあるからこそ、毎年何十万人と技能実習生が日本へやってくるのだ。

日本で中国語やベトナム語やシンハラ語を喋っていても、警察や市民からリンチにあうことはないし、外国人向けの食料品店も多く存在し、彼ら彼女らが何を食べても自由だ。信仰の自由も存在し、イスラム教の礼拝所を建設することも禁止していない。

日本において、ある程度の外国人の自由は保障されているはずだ。

日本へ来て、もし日本語を喋ったり、日本らしい接客ルールやマナーを守ることが『生きづらい』とされるならば、母国で生活していればいいことだ。日本人であったって、外国に住んでいればその土地の習慣や文化を尊重することは当たり前である。それらを『生きづらさ』の一言で片づけてしまうならば、それはわがままというものだろう。では、本作で『生きづらさ』が表現された場面はなかったのだろうか?

唯一、作中で具体的に表現されている箇所は、タンヤが和食料理屋のオープンキッチンで働いているシーン。彼女は一生懸命調理をして、出来上がった料理はなんの問題もなさそうな見た目をしているが、和服をきた年配女性の客から「外国人の作った料理は食べたくない。作り直して」と言われてしまう。接客をした同僚も、「申し訳ございません。調理しなおします」と、外国人が料理をすること自体が申し訳ないことなのだと、客への返答の仕方で肯定してしまう形をとる。

外国人という見た目による差別である。これはあきらかに差別だ。出された料理の見た目が崩れていたり、調味料を間違えて味が不味かったり、髪の毛や折れた割りばしが入っていて衛生状況や危険があればクレームが発生する余地はある。しかし、見た目にも申し分なく、衛生管理も守られていた上で、ただ外国人が作ったからというだけで文句を言うならば、作中の年配女性の主張していることは差別であり、ヘイトである。

この年配女性や料理屋の同僚が無意識にしていることは、実は多くの日本人がとる態度を象徴しているのではないか。外国人に対する無関心、外国人を見たくないという心理。つまり現在の日本が置かれている状況を理解していないのだ。なぜ、日本に外国人がたくさんいるのか、と。

作中のようなオープンキッチンではなくとも、飲食店の厨房では多くの外国人が働いているし、全国の農場や工場で多くの外国人が飲食料品製造の一翼を担っている。「外国人が作った食べ物を食べたくない」とのたまいながら、無意識に外国人の作った飲食料品をコンビニやスーパーで買って食べてもいる。これは矛盾というものだろう。いまや、外国人に働いてもらわなければ各産業の現場が回らない現実がある。

日本人も在日外国人も、日常生活を送る上で、どこまでが差別で、どこまでが守るべきルールやマナーなのか明確に線引きする必要はある。ゴミ出しの仕方や、公共空間での騒音問題などに関しては、ルールやマナーは守ってもらう必要がある。一方で、コンビニの前でたむろしているだけで怖い、というような見た目に基づく感情論は、論理的な理由がない差別である。

作中でさりげなく触れられた、『外国人というだけでアパートを借りるのが大変』問題。これは、不動産屋もビジネスでやっている以上、家賃を安定的に徴収できるのかという懸念があったり(日本人の高齢者に対しても同じ理由でアパートが借りづらい問題がある)、上記のようなゴミ出しの仕方や騒音による日本人住民とのトラブル、言語の壁等あり、感情論ではないはっきりとした理由があるため、差別ではない。

どんなに努力しても『外国人だから』と、見た目による差別をされてしまう。だからTANUKIを服用して日本人の見た目に変身するのである。どこまで行けば、日本の文化を尊重し、理解していることになるだろう。外国人の見た目のままでは受け入れられる余地はないのか。

現実社会では、言葉は努力して上達することができても、ベトナム人がベトナム人としての見た目を変えることはできない。見た目が日本人ではないというだけで差別されるならば、差別する日本人の考え方を改めなければならないだろう。プライドや価値観を守ることも必要だが、目まぐるしく変わっていく世界の潮流を見極めて、井の中の蛙でいるばかりでなく、変化していくことも重要だ。どの時代においても、変化することを止めることはできない。

監督のチェ・ユシン氏は、ほのぼのした作風が特徴の荻上直子監督のファンだそうである。作中にもコミカルなわらべうたのような音楽が流れるが、確かに荻上氏のイズムを感じる。作品の全体的な雰囲気とマッチしているかどうかは別だが…。

映画「この国で、幸せになるの。」(2023)

受け入れ先の企業でこれから働くことになっていたネパール人技能実習生が、ある日突然、失踪した。通っていた日本語学校にも、住んでいる寮にも言伝はなく、どこに行ったのかわからない。

監理団体職員の根古﨑と日本語学校教師のアリスが彼の行方を捜すことになった。

技能実習生寮の冷蔵庫に貼ってある「にほんでのお困りごと 即解決」と書いてあるマグネットシートの連絡先を頼りにその事務所へ向かうと、サングラスをかけた怪しげな外国人が現れる。

怪しげな外国人はコンピューターを駆使し、いとも簡単に失踪した技能実習生の居場所を突き止める。根古﨑とアリスが失踪した技能実習生・ラビを見つけたあと、彼から失踪した理由を聞き出すと、彼より先に日本に働きに来た恋人を探していたのだという。

三人が川原で話をしていると、噂のラビの恋人が小さな子供を抱いて目の前を歩いていく。ラビが彼女を追いかけると、彼に気付いた彼女は逃げるように走っていく。

実はラビが日本に来る前に彼女は日本人と結婚していて子供を授かり、日本で家庭を築いていたのだ。

ラビは彼女との失恋に気を病み、日本で働くことなく、母国へ帰ってしまうのだった…。

(大まかなあらすじ)

本作を一言で表現するならば、『不可解』である。テーマ、ストーリー、編集…作品を構成するすべての部品がバラバラでうまくつながっていない。この映画の概要をAIが説明するところによると、「技能実習生が失踪する問題を扱い、社会のあり方に疑問を投げかける社会派ドラマ」らしい、が、社会を斬るには底抜けに牧歌的である。

本作の内容を考えるためには、まず技能実習生に関する知識を得なければならないが、以下の書籍をおススメする。

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外国人がたくさん登場するただのコメディなのか、技能実習制度に焦点を当てた社会派作品なのか立ち位置がはっきりしない。冒頭とラストで電子部品を組み立てる工場の俯瞰映像が差し込まれ、技能実習制度についての説明をする社会派映画のそぶりを見せるのだが、結局、技能実習制度に斬り込むことはなく、ふたを開けて見てみれば、恋人を追いかけて来日した失踪ネパール人を日本人が追いかけるだけの物語になっている。脚本・編集を兼任した監督のコンセプトが定まっていなかったのではないか。

もしくは、製作段階で事情が二転三転して当初の目的が遂行できなかったのかもしれない。コンセプトやテーマのはっきりしない駄作の裏事情を聞くと、多くの関係者の口が挟まれたことによって、つぎはぎだらけの出来上がりになることがままあるからだ。

ツッコミどころが満載ではある。そのツッコミどころをギャグだと主張するならば、やはり技能実習制度というワードを盛り込むべきではなかった。技能実習制度というヘビーな話題と、あまりに軽すぎるギャグのオンパレードとが、どう考えてもマッチングしない。

そもそも、失踪外国人というには、職場でハラスメントを受けたとか、説明されていた給料より実際の給料が安くて借金が返せそうになかったとか、就労目的の留学生が日本語学校に通う時間ももったいなくてとか、彼らなりの深刻な事情があるものだが、本作のネパール人の失踪理由はというと、まだ日本で働いてもいない上に恋人探しのため、とは!

「失踪外国人問題から社会を斬り込むフリをして、実はただ恋人を探しに行ってただけでした~」というギャグなのだとしたら笑えないし、くだらなすぎる。

全編、吹き替えというのもどういうことか。筆者は最初、口の動きと音声が編集ミスでずれてしまっているのだと思っていた。しかしそれはミスではなく、意図的な吹き替えであった。日本映画なのに、テレビで韓国ドラマを鑑賞している気分になる。その意図はなんなのか。日本語が喋れない外国人の場面だけを字幕にするのが手間だった。音声スタッフが雇えなくて、役者の声がうまく拾えていないので吹き替えにしてしまった。この吹き替えさえも、ギャグなのだろうか?

とにかく整合性を考えていては、この作品を鑑賞することはできない。説明することが難しく、まさに百聞は一見に如かず、である。監督は自主製作映画を撮り始めて、四十年ほどのキャリアを持つという。そんなに長いことやっているのなら、少しは上達せんものかねぇ、などと思うが…。

映画「縁の下のイミグレ」(2023)

貧しい家族を支えるため、ベトナムの田舎から【技能実習生】として日本にやってきたハイン(ナターシャ)。
ジャパニーズドリームを夢見て工場で働くも、職場での不遇(賃金未払い)が続いた(ベトナム技能実習生のジャパニーズドリームとは、日本で数年間働いて貯めたお金で、母国に家を建てたり、新しく商売を始める際の資金にすること)。

ハインの様子を不憫に思った日本人の知り合い・土井(堀家一希)は、ネット検索で無料相談できる行政書士事務所を見つけ、相談の予約をする。
訪れた先の行政書士事務所で、曲者の行政書士・近藤(マギー)と、新垣(中村優一)に対応を受けるが、彼らとの対話の中で、ハインが多額の借金をして日本に来ている事情も知り、「技能実習生」の制度の闇が徐々にわかっていく土井。
曲者の近藤は、行政書士の仕事の範囲を超え、ハインをサポートする(はずの)監理団体という団体と直接やりとりをし、それを受けて慌てて監理団体の西村(ラサール石井)も事務所に駆けつけるが、その行政書士事務所に相談したのがハインだとわかると逆にクレームを言い、我々を責めるならハインも一緒に責められるべきだと騒ぎだす。

話が二転三転する中、この国の深刻な労働者不足を外国人で補おうという政策を推進しているおバカ二世議員(猪俣三四郎)も話に加わり、話は思わぬ方向へ・・・。

多くの矛盾を抱えた技能実習制度。果たして、この国に夢を描いてやってきた外国人労働者に未来はあるのか!?外国人労働者を受け入れるこの制度で、労働力不足は補えるのか!?
「安い国ニッポン」の底を支えてる陽の目を見ない外国人労働者にスポットが当てた異色の社会派ブラックコメディ。

(おおまかに、あらすじを紹介)

技能実習制度についてなにも知らない素人にも、制度の仕組みをわかりやすく笑いをとりまぜながら解説する密室劇の構成はこの映画の魅力だが、逆境にくじけそうになりながらも大きな壁に立ちむかっていく主人公・ハインのキャラクター設定は、戦後の美空ひばり映画や往年のスポ根漫画を彷彿とさせ予定調和感がいなめない。お涙頂戴、かわいそうな外国人、技能実習制度を悪用して搾取するばかりの日本・日本企業。物語の構成はあまりにステレオタイプだ。情に流されやすい日本人好みのストーリーである。

そもそも技能実習生はかわいそうなのか?

本作に加えて、技能実習制度をより深く知りたい方には―『ルポ 技能実習生』澤田晃宏/ちくま新書―をぜひ読んでいただきたいものだが、

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確かに日本企業に対しての当たり外れはあり、過酷な労働環境といった問題も存在するらしいものの、三年や五年といった年季を勤めあげることさえできれば、日本に来るまでの借金を払い終えてなお、大金を稼ぐことができ、彼らの母国に錦を飾ることができる現実がある。作中のハインのように、縫製工場が稼げないのなら、と殺場で働くまでで、技能実習制度の期限内までに金を稼げればいいのである。人生のうちの三年や五年などあっという間なのだ。出稼ぎに来る外国人はぬるま湯に浸かりきっている日本人と違ってタフでドライである。

こういった外国人労働者、はたまた移民政策に関する映画や書籍、ネット記事を観たり読んだりしていていつも思いをはせるのは、目を向けなくてはならない本当の問題は、外国人に対する待遇の改善なんかではなくて、そもそも日本人の労働環境が劣悪であり、技能実習生など単純労働に従事する外国人に依存して、少子高齢化・出生数の減少という問題の根源を放置していることだ。上流の水が濁りきっていては、下流の水が澄んでいるはずがない。

日本にやってくる外国人の母国も将来的には経済成長していく中で、どんどんと賃金格差は狭まっていき、もはや四十年近く景気が低迷している日本に出稼ぎに来る意味はなくなっていく。応急処置的につぎはぎだらけの移民政策をしていても、傷は拡がっていくばかりである。

日本人労働者にとって、技能実習生のような年季はない。賃金は上昇し続けてはいるものの、物価高や増税によって、末端労働者に生活のゆとりができたという実感はなく、ただただ時間を浪費して死ぬまで働き続けるだけだ。

この国において技能実習制度や移民政策に関する情報は、日本人労働者・労働環境に対しての写し鏡のようだと言えよう。一部の外国人排斥運動や、外国人かわいそうバイアスをかけたニュースに踊らされることなく、彼らとの対話や共生にも重点を置きながら、日本人や日本という国にとっての国益・メリットを国民ひとりひとりが考えながら、政治を監視しなければいけない時期に来ているのかもしれない。

映画「ワイルド・ワイルド・ウェスト」(1999)

米CBSで1965年から放送された同名タイトルのドラマが原作。日本でも放送されていたが人気は出なかったらしい。以下の記事は、筆者がドラマ版のリアルタイム世代ではないため、ドラマ版をリアルタイムでテレビにかじりついて観ていた海外ファンによるネットレビューも参考にしつつ、書いていく。

1999年公開の本作、映画『ワイルド・ワイルド・ウェスト』(以下・WWW)は、ドラマ版とは作風が大きく変わってしまったため、ドラマファンからは即座に名だたる過去の低評価映画の仲間入りをさせられてしまった(原作改悪問題)。

アクションなのかコメディなのか、どっちつかずでただバカ騒ぎするだけの本作は、原作ファンが抱いている作品のイメージをことごとく裏切った。原作は子供向けでもありながら、イギリスの007シリーズのようにクールなスパイものでもあり、アメリカの成人男性が観ても血沸き肉躍るようなマッチョな西部劇の世界でもあったようだからだ。しかし本作は全体的に、漫画じみていて子供だましの演出が続く。

2025年現在、ディズニーが製作した実写版『白雪姫』(2025)が史上最低の改悪だとして、世界中の1937年公開のアニメ版『白雪姫』ファン(そして世界中の映画ファン)を激怒させているが、原作のファンが多ければ多いほど、そのイメージを覆す行為は挑戦でもあり、ほとんどの場合はタブーだ。

しかしながら、たくさんの人間が関わっている映画では、製作側の裏事情が作品のクオリティを左右することは否めない。映画はアートでもあるが、金儲けのための興行でもある。作品の中身がどうしようもなくても、映画館に観客を動員できさえすればいい(興行収入優先問題)。

本作『WWW』について、製作側の企画の立ち上げから完成までの細かい経緯については割愛するものの、キャスティングや監督候補が二転三転し、映画会社やプロデューサーの意見が反映され、立場の弱い監督や脚本家が無茶な意見を飲むこともあり、企画はお蔵入りになりかけ…となれば、コンセプトや原作ファンへの義理立てはどこへやら、製作側の完全なるご都合主義で作品が完成されることはお察しいただきたい。

コンセプトや創作に対する一貫した強い信念がない作品はどういう運命をたどるのか、といえば、三谷幸喜監督の『ラヂオの時間』(1997)の登場人物たちのやりとりや、『影の軍団 服部半蔵』(1980)のアメフト姿の忍者のように、お客様に笑っていただくしかない(ツッコミどころがある作品というのも、もしかしたら広い解釈においての良い映画なのかもしれないが)。

個人的に本作は、アーティまでもがハイテンションにならなければ、ぼーっと観るには楽しめる娯楽作品だったのではないかと思う。地味で停滞気味だった当時の日本映画よりも映画館に行く価値はある。アメリカらしい大味で、CGなど特殊効果を駆使し、カラッとしていて、ウィル・スミスがベリーダンスする女装姿もなかなか可愛かったし…。

原作ファンは、主役がウィル・スミスだったことも気に食わないらしい、「ドラマ版は白人だったのになんで黒人がジム・ウェストなんだ?」という具合で…。どことなく下品で大声で叫ぶ役柄も…(主役のキャスティング及び演技問題)。

だが、そもそも、90年代に60年代の作品をそのまま再現するというのが、さすがに時代にそぐわないことではないか。

80年代に入ると、アーノルド・シュワルツェネッガーやシルベスター・スタローンなどの強靭な肉体を誇るパワフル系の俳優が存在感を増し始めて、アクションやバイオレンス系の映画が増えた。と同時に、元コメディアンのエディ・マーフィやジム・キャリー、ロビン・ウィリアムズのようにハイテンションな芸風の俳優も登場し始めた。彼らはそのまま90年代にかけて円熟味を増していって、その時代の顔にもなっていくわけだが、初めは肉体派だったシュワちゃんやスタローンもコメディ映画に出演するようになった、というように90年代は、本作『WWW』の酷評ポイントだったー漫画じみていて子供だましの演出-をするような時代でもあった、という一面もある。

それは時代の空気によって、求められる好みも変わっていったからだと思うのだ。筆者の記憶でも、90年代は、現在よりも明るいコメディ映画が多かったような気がする。

そして上記の俳優は、元ボディビルダーだったりコメディアンだったり、初めから俳優畑でキャリアを積んでこなかった。本作を主演したウィル・スミスも元はラッパーである。もともと演劇・映画畑とは別畑の彼らに、シリアスな演技を業界が求めていなかったのではないかと筆者は考えている。役柄だって、正統派の俳優より、賑やかしのようなものが多い。

という理由によって、本作でのウィル・スミスの演技は彼自身のミスでも文脈にそぐわない行為でもなんでもなく、時代と製作側のお膳立てによってできあがったものである。

古参の原作ドラマファンには申し訳ないが、メル・ギブソンやトム・クルーズ(ウィル・スミス以前に主役打診されていた面々)にキャスティングを断られ、主演がウィル・スミスになり、監督が『メン・イン・ブラック(以下・MIB)』(1997)でタッグを組んだバリー・ソネンフェルドと決まった時点で、原作に忠実にするよりも、『MIB』と同じバディものである『WWW』を『MIB』の焼き直し作品のように、再利用したほうが得策だと考える業界人がいるのは当然だろう。ヒット作の模倣は安全で安心な結果をもたらす率が高いからである。

それにしても、黙って西部劇版『MIB』の評価に収まっておけばよかったのに、全体のバランスを崩してまでも、騒がしくて目立ちたがりなアーティを演じてしまったケヴィン・クラインの罪は大きい。その一点が悔やまれる。

映画「クレンズ・フレンズ」(2018)

ソニーピクチャーズの公式youtubeチャンネルで、2018年にアメリカで公開された「クレンズ・フレンズ」という作品が無料公開されていた。

まったくの予備知識がない作品なので、インターネットで検索をかけてみると、ホラー/コメディに分類されているらしい。私は怪談や精神的に迫ってくるようなホラーはわりと好きなほうなのだが、海外の人間が作る、スプラッターとか肉体的苦痛を伴うようなホラーは大の苦手である。というより、大嫌いだ。

おそるおそる鑑賞する…。

初めに、ソニーピクチャーズの公式HPに紹介されている、あらすじを記しておこう。

傷心の男性が、自分自身を浄化して壊れかけた人生を修復しようと、スピリチュアル系のリトリートに参加する。そこで彼は同じように悩める仲間と出会い、共に“クレンズ”というデトックス法を行う。ところが体から排除されたのは、日々の毒素だけではなかった…。

まったくホラーではなかった。言葉の行間を読むような、シュールなコメディテイスト。ホラーを思わせる気持ち悪いものと言えば、登場人物の身体から出てきた不気味なポケモンのようなもの、だけである。作品自体は、人生の岐路に立たされた登場人物たちがどうやってその困難を乗り越えるのかということを主題にした、純然たる人間ドラマである。

映画としては、特に目新しい工夫があるわけでもないし、ストーリー展開も奇抜だというわけでもない。上映時間も一時間ちょっとなので、長編映画というよりは「小品」という印象である。だからと言って、駄作だとか、平凡だとか、つまらなかったというわけではない。むしろ、個人的には意外と良作だったな、と思った。

なぜ良作だと思ったのかというと、まず、ストーリーが単純でわかりやすい。作品の構成がシンプルなので余計なことを考えずに済むということがある。俳優の演技や、体内から排出されたモンスターがなにを象徴しているのか、を考えることに集中できるのだ。そしてなにより、俳優が名バイプレーヤーばかりなのだ。

アメリカ映画をよく観ている人ならば、一度は顔を目にしたこともあるだろう、オリヴァー・プラット。アダムスファミリーのお母さん役でお馴染みのアンジェリカ・ヒューストン。主人公のポールは、2000年公開の「偶然の恋人」で口の達者なゲイのセス役をやったジョニー・ガレッキ。2022年公開の「ディナー・イン・アメリカ」で伝説的パンクバンドのフロントマン役をやったカイル・ガルナ―など…。

キャスティングが実力派勢ぞろいなので、画面に説得力がある。地味に見えるのに、豪華である。日本の伝統工芸のように、華やかさはないが、わび・さびの世界が漂っている。

あと、もうひとつ。登場人物が体内から吐き出したモンスターに手作り感があることが魅力だ。特殊技術に詳しいわけではないので、どうやって作ってどうやって動かしているのかはわからない。動かない模型を作って、あとでCG処理をほどこしているのか。ストップモーションアニメのように、関節の動く模型を一コマずつ動かしながら撮影し、作り上げているのか。しかし、これだけは言える、ということは、そのモンスターの動き方を見て、監督の映画への愛を感じる、ということだ。

大作にしろ、低予算作品にしろ、昨今はCGだかVFXだかでどれも似たり寄ったりの映像表現になってきているなかで、手作り感というのは貴重な存在意義を示しはじめている。観客の心にじわじわ染みこんでいく、するめのような味わいだ。

本作の脚本・監督を担当したのは、ボビー・ミラーといって、調べてみると手掛けた作品数もそう多くない、新人のようだ。

監督が運営しているらしきウェブサイトを発見した。

https://www.bobbymillertime.com

過去に、ショートフィルムを数本作って映画祭へ出品した後、本作が監督にとっての劇場長編映画デビュー作になっているらしい。

彼のウェブサイトにアップロードされている、ショートフィルム(『TAB』と『END TIMES』)には、「クレンズ・フレンズ」に通ずる、監督の人柄や作風が垣間見れて、今後彼の作品を観る際の良い参考になるだろう。

それにしても、ポールやマギーは心の闇に一見打ち勝ったものの、どういう人生をこれから歩んでいくのだろうか?

映画「ファースター 怒りの銃弾」(2010)

スタッフ

監督、ジョージ·ティルマン·Jr。音楽、クリント·マンセル。脚本、トニーとジョーのゲイトン兄弟で、兄のトニーはプロデュースにも参加している。

音楽を担当したクリント·マンセルは、ポップ・ウィル・イート・イットセルフというバンドの元ボーカリスト。YouTubeで聴いてみたところ、メタルやシューゲイザー、DJやシンセサイザーを使ったエレクトロニックなサウンドがごちゃまぜになったミクスチャーバンドのようだ。バンド脱退後は映画音楽に専念しているとのこと。本作のサウンドトラックは、バンド時代の音楽性を醸しだしつつも、作品の内容に寄り添ったミステリアスな雰囲気を漂わせている。

見どころ

冒頭の約10分が秀逸。主人公がどういう人物なのかがそれとなく説明されるのだが、何気ないシーンでありながらも『復讐』というテーマをうまく表現している。

刑務所の自室の壁に貼られている、主人公と仲良さそうに肩を組む男の写真。観客に、親友か兄弟だろうか?と思わせる。その写真を、決意を新たにしたような、『復讐』心に燃えるような目つきで眺める主人公。部屋の鍵が開けられ、刑務官に付き添われながら所長室まで歩く間、部屋に閉じ込められた他の受刑者が主人公に向かって悪態をつきながら、怒りに満ちた表情で叫んでいる(後の所長のセリフで判明するのだが、主人公に売った喧嘩を買われ、彼らは手ひどい仕返しを受けている)。彼らの態度も、作品のテーマである『復讐』を暗示させている。所長室にて、所長との会話をしていても、主人公は出所までの時間ばかりを気にしていて、さっさと刑務所を出たくてうずうずしている。刑務所を出るときの金網の開け方も、引きちぎって投げ捨てるような動作である(この場面も『復讐』心で煮えたぎった感情を表している)。

外に出て、辺りを見渡す。刑務所の外は砂漠地帯で、熱くてヒリヒリするような心情を代弁する。ここでマカロニ・ウェスタンで聴くようなエレキギターの音と共に、1970年前後のハードロックのようなBGMが流れ、観客は物語がどのように展開されるかまだ知らないけれども、暗示に満ちた巧みな冒頭シーンのおかげで、なんとなく主人公と同じ気持ちになっていて、居ても立っても居られない気分になる…。具体的なエピソードは一つも話していないのに、暗示シーンや主人公の動作によって、いつの間にか観客は主人公の味方になっているのだ…。

見どころ②

自動車は、本作の重要な構成要素の1つだ。

刑務所を出ると、主人公(以後、ドライバー)は、おもむろに走り始め、近くの廃車置き場にたどり着く。そこで、主役とワンセットになって活躍する車が登場する。黒の70’s シボレー シェベルSS(車体の真ん中に太い白線が2本描かれている)だ。存在感と意志の強そうな車体は、ドライバー自身を表しているようだし、車体にペイントされた2本の白線は、ドライバーと兄の絆を思わせる。

上記の車とは別に、回想シーンで、銀行強盗時にドライバーが使用していたのが、オレンジのポンティアック GTO 1967。劇中歌に1970年前後のハードロックが多用されているのはなぜだろうと思いながら鑑賞していたのだが、なるほど、小道具として使用された往年のマッスルカーとの調和を考えて、選曲されたのだろうと想像する。

見どころ③

ドライバーを含めたその他のメインキャラクターの造形も巧みだ。

離婚して一人息子の親権争い中のドラッグ依存症刑事、役名コップ。

親権争いをさせることで、人物の家庭的な雰囲気、小市民感が演出できるし、物語の本筋とはまったく関係ないのだが、コップの小さな日常の争いをかいま見せることで、観客は潜在的に、円満に解決してほしいと思うようになる(人類は昔から、争いが起これば、敵を倒すか対立している者同士をなだめすかして解決するしか選択肢がないわけだが、コップと小競り合いしている妻を殺すわけにはいかない。ならば、なんとかしてなだめすかすしか方法はない)。その観客の感情がラストシーンでの伏線回収に生きてくる。加えて、ドラッグ依存症という設定にすることで、警察官と犯罪者の線引が曖昧になり、犯罪者を罰する立場の警察官が実は犯人グループの一味だった、というようなどんでん返しに持っていけるようになる。

何者かにドライバーを殺すよう依頼された、殺し屋、役名キラーも可愛い。

キラーは一見、冷徹で非の打ち所がない人物のように見える。美人のブロンド彼女もいて(彼女も殺し屋)、眺めのいい豪邸に住んでいる。部屋の壁には大量の武器が隠された収納庫がしかけられている。まるで、ブラッド・ピットとアンジェリーナ・ジョリーがダブル主演した映画「Mr&Mrsスミス」や、007シリーズの世界観だ。しかしのちに判明することだが、キラーは幼少時、先天的に足が悪くてギプスをはめて生活していた。足の付け根から足先まで大きな傷跡が残っていて、大手術と辛いリハビリを乗り越えてきただろうことが察せられる。家に飾ってある写真からは、武道の鍛錬を積んだり、標高の高い雪山登山に挑戦した様子も伺える。最近もヨガの難しいポーズをクリアしたと嬉しそうに彼女に伝えていて、本当に努力家で健気な男なんだ!…

その他、脇役に付随する脇役たちも、殺される直前に人間味溢れる言い訳をのべたり、家庭を持って更生しようとしている様が描かれていたりして、それぞれに卑小な小悪党感がよく出ていて、ドライバーの憎しみ(観客の憎しみ)の対象なんだからさっさと殺されて然るべきなのに、どこか同情したくなる、というか、共感すべき存在に仕立てられている。

あとがきのようなもの

そういえば、キラーの携帯電話の着メロが、マカロニ・ウェスタンの傑作「続·夕陽のガンマン 地獄の決斗」のテーマ曲なのだけど、英題が「The Good, the Bad and the Ugly」、つまり「良い奴、悪い奴と卑劣な奴」で、ここにも本作の主要キャラクター3人を暗示させるような伏線が張られている。もちろん、ドライバーが良い奴で、キラーが悪い奴、コップが卑劣な奴だ。

まとめ

特に目立つ映画ではないのだが、脚本がよくできていて、どんな人でも楽しめる作品になっていると思う。ハリウッド映画の定石を忠実に守っている、というか。

展開の仕方や各パートの時間配分、目安となるシーン数はまさにブレイク·スナイダー著「SAVE THE CAT」で示されたお手本通り。感情移入しやすいキャラクター造形、小道具の使い方や音楽も良いバランスで調和している。

無惨な殺され方をした愛する兄貴の無念をはらすため、憎き敵グループのメンバーを1人ひとり虱潰しにぶっ殺していく、人間の動物的本能を強くゆさぶる、原始人にもわかる傑作物語だ。

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映画「サイダーのように言葉が湧き上がる」(2021)

アニメ音楽レーベル『フライングドッグ』設立10周年記念作品。監督・イシグロキョウヘイ、脚本・イシグロキョウヘイ&佐藤大、音楽・牛尾憲輔、主題歌・never young beach、主要キャラクターの声優に市川染五郎、杉咲花、花江夏樹、山寺宏一などがいる。

普段からアニメ作品をよく観るわけではないからか、今作の製作に関わった会社やスタッフについての知識、情報は皆無である。

メインキャラクターは、コミュ障の少年・チェリーと特徴的な前歯をマスクで隠す少女・スマイル。

二人のバイト先のデイサービスを利用する老人・フジヤマは、彼の若き日の妻が出したレコード(妻はシンガーソングライター?)を探し続けている。

チェリーとスマイルは、そのレコードを共に見つけ出す行為を通じて、友情と恋心を深めながら、お互いのコンプレックスを克服していく、青春物語。

星五つを最大評価とするならば、冒頭は星一つから始まり、ラストは星五つ、が筆者の感想だ。
尻つぼみならぬ頭つぼみ…。
終わり良ければすべて良しじゃないか、との声も聞こえるが、冒頭(いわゆる、つかみ)のシーンが個人的に気に食わなかった(むしろ最悪)だけに、冒頭シーン含めて、もっと丁寧に物語の各パートをつないでいたなら、作品の印象は大きく変わっただろう。
製作中に作品全体の雰囲気が定まっていなかったのかもしれない。
後半が徐々にしっとりとしてきていい雰囲気に盛り上がっていくだけに、特に前半のコミカル(下品)部分が鼻につく。

大きく挙げて二点。

例えば、チェリーとスマイルが劇的に出会うシーンにトリックスター(狂言回し)としてビーバーというキャラクターが登場するが、彼は単なる犯罪者だ。
ショッピングモール内の商品を盗難し、スケートボードで激しく迷走·爆走しながら館内の客を危険にさらし、言葉を覚えるためと称してタギング(落書き)を繰り返す。
作品を観た、特に若い観客は、ビーバーの行為を、作品の冒頭を清新なものにするためのカンフル剤だとして、割り切って眺められるのだろうか?


耳が遠いからといって、白目を剥いて突然絶叫するフジヤマも理解しがたい。作中の後半、フジヤマはおとなしい滋味深いキャラクターとして描かれるのに、なぜ冒頭シーンだけ、突然狂気を発症する謎設定が繰り返されるのか。

性欲が減退した老人が(それに年をとったら童貞かどうかなんてどうでもよくならないか?)、あだ名のチェリー(そもそも仕事場の名札にチェリーなんてあだ名書いとくなよ)に関連付けて「おぉ!チェリーボーイっ!」と童貞をおちょくるセリフを放つことも疑問だ。キャラクターに名前をつけるとき、チェリーボーイ→チェリー→「佐倉を本名にしよう!」の連想ゲームに、そしてこのセリフをじいさんに言わせようとする脚本家に、一番の童貞くささを感じる。
観客の心をつかむための冒頭シーンで(爽やかそうなタイトルと映像美の中で)これらの行為を見るにつけ、筆者の心の扉は、ギギギ…と閉まりかかるのである。

タイトルほど、チェリーがSNSで配信する俳句に、湧き上がる思いや動感を感じないのもひっかかる。口下手ではあっても、もっと活発で動きのある少年を演出することで爽やかさが増したり、俳句にプロの監修をつけることで、より観客にチェリーの俳句を通して気持ちが伝わったのでは、とも思う。

愚痴ったらしくなったが、現代を象徴するショッピングモールやSNSをメインモチーフにしながら、古臭い、レトロと呼ばれるようになった俳句と、シティポップのアルバムジャケットのようなカラフルでビビッドな映像との取り合わせは、斬新で面白い。
古さを題材としながらも、もはや一周まわって令和の時代に完全にマッチした新しさも感じさせた。
その意味では、近年のシティポップブームで再評価された(?)大貫妙子が歌う劇中歌「YAMAZAKURA」も、数十年前の歌にも聞こえれば、現在の新人アーティストがリリースした曲だといっても違和感ない現代性を感じさせて、時代感覚を麻痺させる、絶妙なバランスが混ざり合っている曲調で印象深かった。

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映画「Shall We Dance?」(2004)

1996年、日本で公開された周防正行監督作品『shall we ダンス?』のアメリカリメイク版。

監督はピーター・チェルソム、脚本はオードリー・ウェルズ、主演はリチャード・ギア、草刈民代が演じた若き憧れの先生役は、ジェニファー・ロペスが務める。

筆者にとって日本版は(90年代に生まれ育ったものにとって)作品にうつるファッションや街の雰囲気、映像の質感に、-80年代後半の好景気バブルの余韻をひきずりながらも、バブルがはじけてからすっかり自信をなくし、どう生きていけばいいのか当時の日本人の理想生活モデルを見失った、95年以降のくたびれた空気感-を多分に感じ取れて非常に懐かしく楽しめる作品である。
ストーリー展開や構図の組み立て方、セリフやキャラクター造形、俳優の独特の間合い、すべてが絶妙で面白い。

主人公を始めとした主要キャラクターたちは、大きく道を外れることはしない真面目な小市民。日常生活にそこはかとない不満をかかえ、それを発散する場を探している。その彼らが、ひょんなことから見つけた社交ダンスに生きがいを感じ、徐々に技術が向上していくごとに、灰色だった日常がカラフルに輝いていき、コンプレックスも吹っ飛ばし、まるで別人のように見違えて、ダンス大会で隠されていた能力を発揮していく。

その「カタルシス」の過程が、日本版の作品の妙味であり見どころになるわけだが、意図的に、稼ぎが多くはないだろう、ちびやデブやハゲ、おばさんを登場させることで作品の妙味は強調される。普段は良い思いをすることがなさそうな彼らを、社交ダンスを通して未知なる世界へ前進させるからこそ、応援したくなるし、共感できる。

日本版の『shall we ダンス?』は、作中の登場人物が当時の自信を失った日本人たちを代表して、理想や希望を与え、叶えてくれる作品だったのだ。

一方、アメリカ版は、というと、12時間ダイナーで働き、その後も家政婦の仕事をやって生計とダンスレッスンの費用をまかなっているボビー以外のキャラクターは、どこか切迫感がなく、ダンス教室なんか通いに来なくたって、それなりに楽しく明るく生きていけそうな奴らばっかりだ。

主人公のジョンは弁護士、家も、所沢の先にある駅から遠く離れた狭小住宅などではなくて、大きな敷地に緑が生い茂り、小鳥がさえずり、明るい陽のあたる‐屋敷-とでも呼べそうなところに住んでいるし、ダンス教室の面々だって、ヴァーンには可愛い彼女がいれば、チックだって見た目も悪くないし私生活で恋愛には不自由していなさそうだ。

アメリカ版のどこをみても「カタルシス」が成立する要素が存在しないのである。キャラクターに悲哀がなく「カタルシス」がなければ、どんなにダンスが上達しようと大会で成績を残そうと、感動は生まれない。

また、設定やプロットに多少の変更はあるものの、ほぼ忠実に日本版をそっくりそのまま再現していることも、評価の分かれ目になりそうだ。なんのために日本版になぞらえたのか?大きくアレンジをほどこしたほうが、リメイクとして作品の質が上がったのではないか?

周防正行監督によると、アメリカ版の撮影では、日本版の映像をモニターで流し、俳優たちがそれを見て確認しながら細かい演技の流れのお手本とした、と語っているが(wikipedia内の『Shall We ダンス?』脚注を参照)、それがアメリカ版の作品に良い影響を与えたのだろうか。
もう少し、羽目をはずしてでも、アメリカ独自の『Shall We Dance?』が観てみたかった。

リチャード・ギアお得意の、優雅でスマートなシーンを多用し(黒のスーツを着て妻のために一本の赤いバラを持ってエスカレーターを昇ってくる作中のシーンのような)、アメリカらしい大味なコメディに振り切っても、充分に楽しめたのではないか。

そしてもうひとつ、最後に文句を挙げるなら、ジェニファー・ロペスはたくましくて野性味のある人相、たたずまいが持ち味なので、憂いを帯びた様子など表現できないだろうから(失礼)、ダンス教室の窓辺に立たせないでほしかった。

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映画「She said その名を暴け」

本作を認知したのは初め、2023年1月27日の朝日新聞、クロスレビュー欄の記事である。

米映画プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタイン氏の性加害に関する映画で、ニューヨークタイムズに掲載された彼への告発記事は、『#(ハッシュタグ)Me too』をつけてSNSに性被害に関する体験談を投稿する#Me too運動を引き起こすきっかけになったらしいと知る。

今となっては単なる無知としか言いようがないが、筆者は#Me too運動に正直、関心がなかった。ワインスタインという名前を聞いても、「あぁ、たしか後ろ手にされて手錠をかけられている映像をニュースで見たな…」ぐらいの感覚で、深くその事件の本質を知ろうとはしなかった。記事の中で識者は、フェミニズム映画とも捉えられる、と説明していたが、フェミニズムという言葉も言葉の音としてだけしか知らなかった。その時はとりあえず素通りした。

続けて、3月7日の朝日新聞、「上野千鶴子ブーム 中国女性の今」という記事を文化欄で読み、先述の映画の記事を思い出す。フェミニズムについての知識が、ワインスタインの性加害事件や世間の女性のおかれた立場を理解することに、まず必要なのではないか。上野千鶴子氏が筆者のフェミニズムへの入り口となり、彼女の著作を読み始めた。

これまで、女性の視点から社会を見つめようとする意識が完全に欠けており、自身に危害が加えられなかった男性社会の男の目線でしか、社会やものを見ていなかった、と自戒した。

フェミニズムの予備知識を多少なりとも頭に入れた後、千葉県柏市のキネ旬シアターで本作を鑑賞後、原作である書籍『その名を暴け #Me tooに火をつけたジャーナリストたちの闘い』も読む。

映画が2022年に公開されたというのは、時期としてあまりタイムリーではなく、話題性にも乏しかったかもしれない。事実、評論家からの評価はそこそこ高かったものの、評判にならず、アカデミー賞の候補作にもならなかった。ハリウッドの超有名プロデューサーが作品の題材になっているのに。

#Me too運動が盛んだったのは2017年、2018年頃だったし、ワインスタイン氏は、2020年3月、ニューヨーク最高裁判所で禁錮23年の判決を既に受けてもいる。終わった話題だったのか?

しかしながら、#Me tooやワインスタイン事件というのは、性犯罪者が逮捕されたから一件落着、という話ではなく、この件をきっかけに、女性に対する社会的な仕組みや既得権益層の考え方が変わらなければ永遠に意味がない問題だ(男性が女性や弱者が憤慨している要素を理解し現状を変革する)。そして、どの時代のどの事件でも、ワンテンポ遅れて事の重大さを認識したり興味をもったりする人々も存在するはずだから(筆者がその1人)、この映画が製作されたことは十分に有益だろう。

本作を鑑賞したり原作を読むことは、そしてフェミニズムの考え方を知ることは、女性や弱者が暮らしやすい社会を考えていく上での一助になると思う。

ワインスタイン氏から性被害を受けた女優、ローズ・マッゴーワン氏の言葉を引き合いに出すと、ワインスタインだけでなく、ハリウッドの映画業界自体が、

・名声をえさに女性をおびきよせ
・高額の利益を生み出す商品に変え、体を所有物のように扱い、それから放り出し
・加害者は監視されていないので恐れておらず
・どのスタジオも、侮辱しては金を払って済まし
・大半が秘密保持契約書を結ばされ
・女の方がバッシングされ
・逃げようものなら、代わりの女優志望者はたくさんいる

のだという。

この言葉を突き詰めて考えていくと、映画産業に限らず、どの産業にも構造的な共通点が見いだせるのではなかろうか?と考える。少なくとも、女性にはピンとくるはずだ。

雇用を餌に若い女性をおびきよせ、男社会・オヤジ社会に放り込まれる。職場では女性従業員のほうが数が少なく、すぐに性的な視線や言動で弄ばれる。被害を受けて不快な思いをしても、どこに相談すればいいかわからない。職場の配置換えをしてもらっても、またしてもそこはオヤジ集団。親身になって相談にのってくれていた上司の薄皮一枚下は、またたく間に豹変するセクハラ野郎かもしれない。会社にセクハラ委員会があったって、男ばかりなのだから、本気で女性の待遇改善にのりだすかはいささか疑問だ。世の中の風潮にあわせてセクハラにならないような言動を暗記してきたオヤジたちだって、本当は何が問題なのか分かっていないこともある。

結局、職場を金のかからないキャバクラ・風俗としてしか見ていないオヤジたちから、女性の側が逃れざるを得ない。誰かが辞めたって、毎年若い女性は入社してくるのだ。

そもそも、職場や社会で権力を持つ者の多くが女性であれば、もしそれが極端だとしても、権力を持たざるとも組織における女性の割合が多ければ、男性から女性への性加害事件に蓋がされることはないはずだ。権力者や会社などの組織が男性中心だからこそ、性加害事件が起きても矮小化するような判断を下したり、見て見ぬふりをしたり、同じ男として共感しうる事柄として隠蔽を是とし、男たちは自らの保身にはしる。

男性優位社会は、会社の重役や性犯罪者でなくとも、男だというだけで、男の側に権力がある。女側が要望を通そうとすれば、男の権力におもねらなければならない構造がある。

男性側が女性に対する性をめぐる理解を深めると共に、社会や組織の構造も変わっていかなければならない。目の前に存在するのはAVやエロ本から抜け出てきたキャラクターではなく、感情のある1人の人間だという当たり前のことを最低限気に留めておくだけでも必要だろう。

筆者もまだまだ勉強不足なところがあり、このブログも具体性や説得性にかける文面になっていることは自覚しているが、また追ってジェンダーに関する理解が深まれば、記事として綴っていきたいと思っている。

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宇宙でいちばんあかるい屋根/星ばあの謎

星ばあとは?

つばめの前に突然あらわれた星ばあは最初、自分が何者で、どこから来たのか明かさない。あげくの果てに、自分は空が飛べると言い放つも、実際に空を飛ぶところをつばめに見せるわけでもない、謎で奇怪な老婆。

星ばあの正体は、つばめとの対話でだんだんと判明していくが、結論から言ってしまえば、笹川の祖母・星野とよであることがわかる。
星野とよ(星ばあ)は長い間、家族とは疎遠で、誰が見舞いに来るわけでもない、病院に入院している寝たきりのおばあさんである。

病院で寝たきりの老婆が、つばめが行きつけにしている雑居ビルの屋上で動き回ったり、つばめと一緒に街を歩いたりできるのはなぜだろうか?星野とよが、病院を勝手に抜け出して遊んでいるという記述はどこにも見当たらない。

日本の精神性・他界観

私が考えるに、星ばあは『生霊』である。この令和の時代に、やれ『幽霊』だ、『あの世』だ、とか言うと、オカルトの一言で捨て去られてしまうが、星ばあを『生霊』と捉えると、日本の他界観や精神世界が作品の底を流れていることが感じられる。

日本の幽霊や他界観が形作られるまでを簡略に説明してみると、

  • 狩猟・採集をしながら暮らしていた古代日本人は、山や川、岩、風、その命をいただく動物など、ちっぽけな人間の力ではどうにもできない大きな自然のひとつひとつに、人間と同じ魂(精霊)が宿ると考えて、畏れ敬い感謝する『アニミズム』を信仰としてきた。基本的に、そのひとつひとつの精霊(神)に具体的な姿形は定められておらず、偶像崇拝的な信仰ではなかった。
  • しかし、弥生時代になり大陸から様々な文化が伝わってきて、定着農耕が行われると、「共同労働が必要である」、「耕地が子孫に伝えられる」という二つの性格から、家や家族と呼ばれる制度が強く意識される。作物の、ことに稲の種まき→発芽→開花→結実→枯死というサイクルが、人間の誕生→成人→結婚→お産→死というサイクルと重ね合わされ、死は再生のための一つのプロセスと捉えられ、死への恐怖が薄らいで、亡くなった先祖は祖霊となって現世と他界を往来するというイメージが生まれてくる。家や家族が永続するため、成員の幸福や家の土地から採れる作物が豊かに実るようにと願う気持ち・理想から、祖霊を崇め奉ることは、現世に生きる家族や作物の再生・発展に寄与するだろうという、祖霊信仰を誕生させた。
  • 時代が下がって、大陸から仏教が日本に入り浸透していくと、姿形をとらなかった他界が具体的なイメージをおびていき、亡くなった人の弔い方も、土葬と並行して火葬が普及していくことで、魂とともに肉体も他界へ行き人間の姿をしたまま、いわゆる極楽・地獄に振り分けられる、という考えも広まっていく。現世と他界を往来する祖霊は、極楽・地獄というイメージと共に、現生の人々にいい影響を与えもすれば、悪い影響を与えもする存在になった(悪い影響とはすなわち、祟り神である)。

こうして、古代からの精霊信仰と中国からの仏教の考えがミックスされていき、日本特有の他界観や幽霊観ができあがった。

つばめと対話している時期の星ばあ(星野とよ)は、まだ亡くなってはいないが、死ぬ前に孫に一目会いたいと思う強い気持ちが『生霊』となった、現世で生きる家族の幸福を願い見守る優しい、祖霊に近い存在だ(作中では星野とよ自身の家族のみならず、つばめや亨の家族の関係修復をも間接的に手助けする)。

普段から、科学的に説明できない事物をオカルトの一言で切り捨てるような人々は、星ばあが、日本の農耕社会が生み出した他界観に通じる『幽霊』、『生霊』であるという発想すら持てず、作品世界を覆う幻想的な表現や海外のファンタジー作品に登場する魔法使いのような星ばあの言動によって、今作を、中学生の思春期話に毛が生えたもの、くらいの内容でしか受け止めないであろう。

しかし、作品の底を流れる精神性に想いを馳せると、ヤングアダルトという小さい枠に押し込められない、民俗学的な視点を持つ、意外にも深くて広い世界が広がっていることが感じられる。

星ばあがつばめを選んだ理由

そこでもうひとつ、なぜ、赤の他人であるつばめの前に星ばあが現れたのかという疑問が頭をもたげる。なぜ、星ばあがつばめを選んだのか?と…。
私は、つばめが『夢見がちな』少女であったことが関係しているのではないかと仮説する。

平安時代には、夢(夜に寝た時に見る夢・頭の中で想像される映像)が、他界と交信できる手段の一つとして信じられていたし、幽霊に関する話には、夢を介する話がいくつも散見される。
夢の中では、亡くなった人があの世とこの世を自在に行き来し、夢を見ている人も、亡くなった人と喋ったり行動を共にできる。

作中でつばめが夜に見る方の夢を見たのは一回だけだが、いささかこじつけかもしれないけれど、『夢を見る』という言葉自体が、つばめと星ばあを取り持つ鍵になったのだろう。

夜に『夢を見て』、夢の中に、亡くなった人が出てくると、現世の人間と他界の人間は交流できる…。メアリーポピンズを読んで、幼いつばめの頭の中で、『夢を見て』、本気で空を飛ぶことができるんじゃないかと信じ、『夢を見』る、つばめの感性が星ばあのアンテナにひっかかり(笹川と近しい関係だったことも否めない)、つばめを通して、孫に一目会いたいと思う星野とよの『夢』が叶えられる存在として、近づいた可能性が考えられる。

まとめ

「宇宙でいちばんあかるい屋根」は、はっきりとその事について触れているわけではないが、読者や視聴者自身が、現在では『オカルト』の一言で切り捨てる日本の幽霊や他界観について意識的でなければ、特に星ばあの存在について、理解しがたい、捉えどころのない作品に感じると思うし、その事に意識を向けないと、ネット上のレビューにも実際に見受けられたように、ファンタジーと、現実的な物語のどちらにも振り切らない話として、作品の評価を貶めかねないことにもなると考える。

星ばあは『幽霊』、『生霊』である。幽霊は元来、日本の農耕社会が生み出した、現生の家族の幸福・繁栄を願う『祖霊』であった。星ばあは孫の笹川や娘のみならず、つばめや亨の家族再生にも一役買った『祖霊』的守り神である。

日本の幽霊や他界観の概念・精神性を念頭に置くことで、「宇宙でいちばんあかるい屋根」に、日本の古典文学にも通じる、奥深い世界観を感じられるだろう。

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